日本の鉄道史は佐賀・長崎で始まった!?西九州新幹線アナザーヒストリー【取材ノートから No.12】

佐賀・長崎エリアに高速鉄道新時代を告げた西九州新幹線「かもめ」。本サイトでも紹介の通り、JR九州は2023年夏にN700S1編成(6両)を追加投入する方針を明らかにしました(写真:ninochan555 / PIXTA)

西九州新幹線の開業から2ヵ月が経過しました。武雄温泉―長崎間最速23分間のスピードと乗り心地の良さを武器に、「佐賀・長崎、そして九州全体を元気にしたい」(開業記念式典での古宮洋二JR九州社長のあいさつから。大意)の思いを背負って運行を始めた新幹線は、開業30日間の実績で2021年の在来線特急時代に比べ2.3倍増に当たる1日平均約6600人が利用するなど、まずは順調なスタートを切ったようです。

ところで、今の路線図ではJR鹿児島線(在来線)の支線のようにも見えてしまう、鳥栖から佐賀、長崎にいたる長崎線、明治の昔を振り返れば九州を代表する重要路線として、建設が急がれたのでした。ここでは「西九州新幹線ヒストリー&アナザーヒストリー」と題し、佐賀・長崎の鉄道の歩みを解き明かしましょう。

ドイツ式で建設

九州初めての鉄道が開通したのは、新橋―横浜間に汽笛一声が鳴り響いた1872年から17年後、1889年のことです。

明治の幹線鉄道の多くは、東北線の日本鉄道、山陽線の山陽鉄道など民間鉄道会社の手で建設されたことは、本サイトをご覧の皆さんならご存じでしょう。

九州も事情は同じで、福岡、佐賀、熊本、長崎の4県有志が1888年に九州鉄道を設立。技術顧問にドイツ人技師のヘルマン・ルムシュッテルを迎え(毎日1ダースのビールを愛飲したなどの逸話が残ります)、ドイツ式で工事が進められました。

九州鉄道は当初、門司―遠賀川間ほか4工区を一気に着工・開業する方針でしたが、資金確保が難航して博多―久留米間から工事をスタート。突貫工事で設立翌年の1889年、九州最初の鉄道として、博多―千歳川仮停車場(筑後川北岸)間が運転開始しました。

九州2番目の長崎線

鳥栖―佐賀―長崎・佐世保間の鉄道路線図と開業年(資料:国鉄九州総局が1972年ごろに発行したパンフレットから)

鳥栖で鹿児島線から分岐する長崎線は、鹿児島線門司―熊本間に続いて、九州の鉄道で2番目に工事が始まりました。

理由は、長崎県に長崎港と佐世保港という2つの重要港があったから。鳥栖―佐賀間は、九州の鉄道開業から2年後の1891年に開業。その後徐々に線路を延ばし、1898年には佐世保まで開通しました。

鳥栖―長崎間の開業は、佐世保開通と同じ1898年ですが、開業月は佐世保が1月、長崎が11月。県都の長崎に先行して佐世保が開業しました。

ちなみに、当初の長崎行き列車は、鳥栖―佐賀―山口(後に肥前山口に改称、2022年の西九州新幹線開業に合わせて江北へと改称されました)―早岐(はいき)―長崎の内陸を経由。このルートが最初の長崎線でした。

長崎の鉄道史をもう一つ、開業時の長崎駅は今の浦上駅でした。7年後の1905年に鉄道が長崎市中心部に延伸されると、駅名を新しい長崎駅に譲って、浦上に駅名変更されました。

有明海ルートが長崎線に

長崎の鉄道物語は続きます。肥前山口(現:江北)―諫早間を短絡する有明海沿いのルートは1934年に開通。建設時は有明線を名乗っていた有明海ルートが長崎線に。内陸ルートは肥前山口―佐世保間が佐世保線、早岐―諫早間が大村線になりました。

九州で最も有名な海の見える駅・JR大村線千綿駅。昭和の面影を残す木造駅舎で、郷愁を誘います(写真:ゆう / PIXTA)

肥前山口―諫早間は有明海ルートが60.8キロ、内陸ルートが87.5キロで、30キロ近く距離が短縮されたほか、海岸ルートはこう配が少なく時間短縮が図られました。

ヒストリーのラストは、長崎に入る喜々津―浦上間。ここは内陸部の新線と、大浦湾沿いの旧線のダブルルートです。海岸沿いでカーブ連続の旧線に対し、1972年開業の新線は山中をトンネルで抜けて直線状に結びます。

しかし、旧線は眺めのいい大村湾沿いを走ります。新線が開業しても、そして西九州新幹線が開業しても、お目当ては旧線という鉄道ファンの方、いらっしゃるかもしれませんね。

佐賀藩が蒸気車ひな形を製作

ここから取材ノート読み返しながら、佐賀・長崎の鉄道のアナザーヒストリーをたどります。

幕末の佐賀藩は、長崎警備の強化を目的に、近代的な海軍の創設を目指していました。1852年には「精錬方(せいれんかた)」という研究所を創設して、長崎で手に入れた蘭学書などから蒸気機関の研究を始めました。

プチャーチン率いるロシアの軍艦「パルラダ号」が長崎に入港すると、精錬方の研究者は艦上で蒸気車ひな形の実走を目の当たりにします。ひな形は今も使う表現ですが、ここでは模型のこと。精錬方は1855年、蒸気車ひな形を完成させました。

ひな形は全長39.8センチ、車輪幅(軌間)14センチ、高さ31.5センチ。ボイラーに煙突と片側2輪の動輪を付けた簡素な構造で、実物のSLにある前後の動輪をつなぐ棒状のロッドはありません。燃料はアルコール、名称は蒸気車ですが、2本のレールの上を走るれっきとした「鉄道」でした(ひな形は、「日本最初の鉄道模型」の見方も)。

グラバーが大浦海岸でSLをデモンストレーション

次いで、10年後の1865年には長崎の大浦海岸で小型蒸気機関車の試運転が実施されました。試運転を行ったのは、今もグラバー邸が長崎の観光名所として残るスコットランド出身の商人・トーマス・グラバー。どうやらグラバーは、日本の鉄道採用をもくろんだようです。グラバーは大浦海岸に600メートルのレールを敷き、SL「アイアン・デューク号」が2両の客車をけん引しました。

佐賀藩の蒸気車やグラバーのSLと、明治になって政府主導で建設した鉄道の関係は不明です。しかし、長崎市の旧イギリス領事館跡地には、「我が国鉄道発祥の地」の碑が今も建ちます。

「我が国鉄道発祥の地」は長崎電気軌道(路面電車)のメディカルセンター停留所そばの長崎みなとメディカルセンター前にあります(写真:y.u-stable / PIXTA)

高輪築堤建設を決断した佐賀出身の偉人

佐賀・長崎のアナザーヒストリーの締めくくりは、2022年10月に東京の日比谷公園で開かれた「鉄道フェスティバル」のレポートでも触れさせていただいた、佐賀出身の明治維新の立役者・大隈重信と鉄道建設をめぐる秘話。

日本最初の鉄道、新橋―横浜間約29キロのうち田町―品川間を中心とする約2.7キロは海上に築堤を建設して、その上にレールを敷きました。この区間には兵部省の軍用地などがあり、用地買収に難航したためです。

この時、築堤建設を決断したのが大隈。「鉄道の父」と称される井上勝(鉄道頭、鉄道庁長官など)は、「ついに隈公(わいこう。大隈のことです)の英断をもって海面を埋築し、線路を通過せしめしものなり」と回顧しました。

この築堤こそ、JR東日本の「高輪ゲートウェイシティ(仮称)」で話題を集める鉄道遺構の「高輪築堤」。佐賀県は郷土の偉人・大隈の「志」を学び、未来につなぐ事業として「築堤の石」を譲り受け、佐賀城公園に築堤を再現。西九州新幹線開業に先立つ、2022年4月15日にお披露目されました。

佐賀・長崎の鉄道の正史と(アナザー)ヒストリーは以上です。これからの鉄道史はもちろん西九州新幹線、そして新しいD&S(デザイン&ストーリー)列車「ふたつ星4047」が書きつないでいくはずです。

新しい観光列車「ふたつ星4047」。JR九州の特急・観光列車といえばこの人、工業デザイナーの水戸岡鋭治さんが設計・デザインしたふたつ星は西九州新幹線との二人三脚で地域観光に新風を吹き込みます(写真:鉄道チャンネル編集部)

記事:上里夏生

© 株式会社エキスプレス