若き日のサザンがそこにいる!羨ましいぐらいに青春してる「バラッド '77〜'82」  リリース40周年!

サザンの隠れた名曲「わすれじのレイド・バック」

カラオケでサザンを歌う御仁は山ほどいて、ほとんどは「ああ、またか」と聴き流す私だが、この曲を歌われると「おお!」とつい握手したくなる。「わすれじのレイド・バック」だ。この曲、隠れた名曲として名高いが、個人的にも思い入れの深い曲だ。

もう四半世紀ほど前になるが、1998年春、ニッポン放送で、テリー伊藤氏と上柳昌彦アナウンサーの男2人による『のってけラジオ』という昼のワイド番組がスタート。私は曜日担当作家の1人で、2010年に番組が終了するまで12年間、構成を担当した。それだけ長期間にわたり、毎週テリーさんと逢えたことは本当にエキサイティングだったし、ゲストとしてやって来た様々な大物アーティストにも逢うことができた。これは一生の財産である。

実はその『のってけラジオ』の初代エンディングテーマが「わすれじのレイド・バック」だった。上柳アナの選曲で、スタジオでこの曲が流れてくると、心地よい疲労感とともに「ああ、この楽しいひとときがもう終わってしまうのか……」と寂しくなった。まさに気分はレイド・バック。桑田佳祐の歌声がやたらと沁みたのをよく覚えている。

その「わすれじのレイド・バック」が収録されているアルバムが、今回取り上げる『バラッド ’77~’82』である。1982年の暮れに発売された、初期のバラード系楽曲を集めたベスト盤だ。サザンがデビューしたのは1978年だが、タイトルはなぜか『’77〜』。これは当時のスタッフによると、デビュー前にライヴで披露していた曲が入っているから、ということのようだ。

カセットのみでリリースされた「バラッド ’77~’82」

実は本作、アナログ盤レコードは存在しない。「カセットのみ」の発売だったからだ。非常によく売れたため1985年にCD化されたが、このときもアナログ盤は出なかった。現在はサザンもサブスクが解禁されたけれど、かつてはこのアルバムを買うか、オリジナルの7インチアナログ盤を買わないと聴けないシングル曲がいくつかあった。「わすれじのレイド・バック」もその一つだ。

今回、あらためて全20曲を並び順どおりに聴いてみたけれど、サザンの幅広い音楽性と、バンドとしての懐の広さを実感した。なんちゅうか、ビートルズのホワイトアルバムを聴いている感じがしたのだ。”ジャンル何でもあり”、みたいな。

この幅の広さはいったいどこから来ているのか? 私は当時のレコーディングスタッフに話を伺ったことがある。青山学院大の学生バンドだったサザンを発掘、彼らと居酒屋で呑み、音楽について語らい、デビューのきっかけを作った元ビクターの担当ディレクター・高垣健氏だ。

初期のサザンがどんなふうに楽曲創りをしていたのか、高垣氏にいろいろ貴重なエピソードを聞かせてもらったが、興味深かったのは1980年、サザンがスタジオに籠もっていた時期の話だ。

デビュー2年目の1979年、第3弾シングル「いとしのエリー」が大ヒット。サザンは歌番組だけでなく、バラエティにも引っ張りだこになった。そういや『8時だョ!全員集合』にも出てたもんなぁ。知名度は大いに上がったが、バンドのフロントマンであり、曲も創る桑田の疲弊ぶりはだんだん深刻になっていった。

「このままでは、せっかくの才能が潰れてしまう」と考えた高垣氏らスタッフはメンバーと話し合い、サザンはTVへの露出をしばらく中断。レコーディングに専念することになった。これもビートルズみたいな話だ。

当時のサザンにとって、自分たちが今後やりたい音楽を見つめ直すために、この “一時撤退” は必要なことだった。露出が減ったことでレコードの売り上げは落ち込み、ビクター社内でも批判の声があったと思うが、彼らの意思を尊重し、消耗品扱いしなかった高垣氏はじめスタッフには敬意を表したい。

5ヵ月連続でシングルをリリース、題して「FIVE ROCK SHOW」

スタジオに籠もって様々な曲を仕上げた彼らは、その成果を世に問うべく、1980年2月から「5ヵ月連続でシングルをリリースする」という大胆な企画に打って出る。題して「FIVE ROCK SHOW」。

サザンの所属事務所・アミューズの大里洋吉会長は、1977年、原田真二をデビューさせた際に「3ヵ月連続シングルリリース」という前代未聞の試みを敢行。3曲同時チャートインという大成功を収めた。

サザンの場合はすでに売れていたので意味合いは異なるが、多少無謀でも、思い付いたことはまずやってみよう、というロックな姿勢が素晴らしい。この「FIVE ROCK SHOW」、実際は半年間のプロジェクトになったが、サザンは予定どおり短期間に5枚のシングルを発表した。

リリース順にA面曲を列挙すると、「涙のアベニュー」「恋するマンスリー・デイ」「いなせなロコモーション」「ジャズマン(JAZZ MAN)」、そして〆の1曲が先述の「わすれじのレイド・バック」だ。

『バラッド ’77~’82』にも収録されている「涙のアベニュー」はブルージーなロッカバラード。「ジャズマン(JAZZ MAN)」はいかにもな桑田節にジャズのスイングを合体させた意欲作で、このバンド、引き出しがいったいいくつあるのよ? … である。

サザンにとってかけがえのない存在だった名ピアニスト八木正生

実はこの2曲、同じ人物が編曲を担当している。名ジャズピアニスト・八木正生である。高垣氏によると、当時ディレクターとして心掛けていたことは「自分が知っているミュージシャンを、桑田君にどんどん紹介していくこと」だった。中でもとりわけ桑田に大きな影響を与えたのが八木だった。

八木は『バラッド ’77~’82』に収録されている20曲中、実に8曲のアレンジを手掛けている。この時期、桑田にとってもバンドにとっても、八木はかけがえのない存在だったことがよくわかる。

八木は1934年生まれで、桑田は1956年生まれ。戦中派と戦後派で、年齢はふた回りほど離れているが、聴いている音楽の趣味が合い、2人は年の差を超えて意気投合した。

この時期、八木が関わった楽曲で、特筆すべき曲が2曲ある。その2曲が収録されているのも『バラッド ’77~’82』を名盤たらしめている理由だ。

まずは原由子が歌い、高田みづえもカヴァーしてヒットした名曲「私はピアノ」。1980年3月発売のアルバム『タイニイ・バブルス』収録曲で、弦&管楽器の編曲は八木が担当している。

本曲、桑田が愛して止まない歌謡曲へのオマージュ作でもあるが、ジャズピアニスト・八木のアレンジによってさらに曲が洗練された。麻雀で言うと1翻上がってさらにドラが乗り、満貫になった感じだろうか。ボーカリスト・原由子の才能を引き出した点でも、この曲は意義深い。

もう1曲は、桑田と原の初デュエット曲となった「シャ・ラ・ラ」である。この曲は、1980年11月にリリース。「FIVE ROCK SHOW」が一段落したあと最初に出たシングルだ。この曲も八木が弦楽器のアレンジを手掛け、ジャズ風のテイストが加わっている。

高垣氏によると、もともとこの曲は桑田が1人で歌う予定だった。だが「私はピアノ」で原のボーカルの魅力に気付いた桑田は「この曲にもっと、原坊のボーカルを入れていきたいんだけど」とメンバーに提案。みんなで意見を出し合っていくうちに、原の歌うパートがだんだん増えていき、最終的に「サザン初のデュエットソング」になったという。いい話だ。

桑田佳祐にとって「音楽の先生」だった原由子

桑田が音楽的思索を深めていったこの時期、原はよき相談相手となった。彼女は幼少時からピアノを習い、当然譜面も読めた。一方、桑田はまったくの独学。桑田にとって原は、楽理的な部分を埋めてくれる「音楽の先生」でもあったと高垣氏は言う。

「今思い返すと、2人の絆が深まっていったのも、ちょうどその頃ですね。まさか、結婚するとは思いませんでしたが……」

このアルバムは、ベスト盤ではあるが、ただの名曲集ではない。桑田・原をはじめ、メンバー全員が苦悩し、真剣に音楽と向き合い、新しい出逢いを通じて得たものを作品に昇華していった…… その軌跡でもある。若き日の、羨ましいぐらい青春しているサザンがそこにいる。

カタリベ: チャッピー加藤

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