【妻有新聞】95歳、93歳夫婦、現役米づくり 松之山・天水越 佐藤正雄さん、ユキさん、今季も1.5ヘクタールを(新潟県十日町市)

寛ぐ佐藤正雄さんとユキさん。愛犬ストックも一緒(30日、松之山で)

2年前まで2㌶の米づくりを行い、今季も1・5㌶を作る。来年1月16日に96歳になる松之山・天水島の佐藤正雄さん、2歳違いの93歳の妻・ユキさんと、まさに二人三脚、人生を歩んでいる。「鍬よりトラクターの方が楽だが、今の機械は自分でなおせなくなっている。まあ、仕方ないかぁ」。収穫の30㌔米袋を持ち上げ、積み上げる元気な佐藤さんだ。

屋号は「都屋(みやこや)」。商売などを営んでいたわけでないが、先代の「都暮し」から屋号になった。父・小太郎さんは日清戦争の兵役検査で、前日の飲みすぎ不摂生のため検査不合格で兵役免除。東京で人力車の「車引き」など行い、内務省役員の「おかかえ車引き」など務めた。そのため「都で生活した者」から屋号に『都屋』が付き、いまもこの屋号だ。

正雄さんが2000年に家を新築時、古い建て柱が出てきた。都屋の前の屋号は『六衛(ろくえい)』と呼ばれていて、その当時の地震柱が改築時の基礎工事で土の中から出てきた。「数百年前の柱だったなぁ」。記憶は鮮明、その歩みは、波乱万丈の人生だ。

父・小太郎さんは7人の子を持つ。正雄さんは三男。「小太郎が47歳の時の子で、小学校時代、親は60代になっていて、当時は勤労奉仕で炭背負いがあり、親父の代わりに大厳寺まで行ったなぁ」。18歳になった年の2月1日、志願して舞鶴の海軍に入った。「歩くのが嫌だったから海軍に行った。水の中は田んぼの中くらいしか入ったことがなかったが、まぁ何とかなると」。その年の8月終戦。「海軍では大和や武蔵に乗った仲間もいた」、戦後77年経つが、当時の仲間たちの事はよく覚えている。

昭和25年、松之山山湯生まれのユキさんと結婚。23歳の時。女3人、男1人の子を授かる。農業だけでは食っていけなくなり、昭和28年から「出稼ぎ」が始まる。茨城の炭鉱で働き、「土方もやった。仕事の請負もやったが、出稼ぎ仲間が春彼岸が近づくと仕事が終わっていなくても帰ってしまい、請負はやめた」。

温泉掘削の仕事はまさに波乱万丈だった。「京都の地質学の先生と知り合い、井戸掘りの仕事を受ける会社ができた。だが温泉掘りは出れば先生、出なければペテン師扱いだった」。当時の大阪市長など経済界メンバーも含まれたグループだった。温泉は出なかったが「大阪では井戸を掘ると炭酸水が出た。それをどうしたかは覚えていないが、コカ・コーラが販売された頃だったのを覚えているが、炭酸水が出た。温泉掘りはうまくいかず、半年間も無給だった。アイデアルの傘で知られた地元の社長に3ヵ月世話になったなぁ」。

昭和39年の東京オリンピック頃には、職を変え、大工見習に入る。「知り合いを通じて川崎の工務店に行ったが、分業が細かく、その知り合いの一人親方の弟子になり、大工の全般を学んだ。この親方に40年ほど世話になり、80歳過ぎても行っていたなぁ」。冬は出稼ぎ、春の田植えが終わると出稼ぎへ、秋の収穫に戻り、終わると再び出稼ぎへ、この生活が長らく続いた。

3反(30㌃)の米づくりから始まり、2年前まで2・3㌶の米づくりを行い、いまも1・5㌶を95歳の正雄さん、93歳のユキさんと、まさに二人三脚での米づくり。「子どもらが来ても、じゃまだけだなぁ。それでも、俺が作った米を取りに来るんだ。時々、孫が手伝いに来るがなぁ」。平成12年に家を建て替えた。「川崎の親方から材料を入れて、自分でできる事はやった。基礎の鉄筋も自分でやった」、「農業の機械も前は自分で直したが、最近のはコンピューターかなんかで、故障したらどうしようもない。まあ、仕方ないなぁ」。

先日、近くの山が白くなった。「冬は温泉通いだな。春まで、仕方ないなぁ」。

(妻有新聞 恩田昌美)

【妻有新聞 2022(令和4)年12月3日号】

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