なぜ終戦後も捕虜を救えなかったのか?『ラーゲリより愛を込めて』 二宮和也の“声”が伝える抑留兵の希望

©2022 映画「ラーゲリより愛を込めて」製作委員会 ©1989清水香子

二宮和也が実在の抑留兵を演じる

「人間が生きるということがどういうことなのか、シベリアに来てようやく分かってきたような気がする。それについて書いてみたい」

病床でそう語るのは山本幡男(二宮和也)。彼の声からは、心からそうしたいと望んでいることが伝わってきた。

山本は、終戦から9年も経つのに、シベリアにある強制労働収容所にいる。満足な食事も、娯楽もなく、集まって語り合うことすら禁止された上、病に冒されている。それでも彼の声には自らを肯定する力強さがあった。同時に彼の声は、周囲の人々が失いかけている“希望”に働き掛けているのだと感じた。この声が実にいい。

ロシア文学を愛した山本幡男の半生

第二次世界大戦後、厳冬のシベリアに不当抑留されながら仲間に生きる希望を説き続けた、瀬々敬久監督『ラーゲリより愛を込めて』の主人公・山本幡男さんは実在した。旧制東京外国語学校(現・東京外国語大学)でロシア語を学び、1933年に結婚して、35年に満州にわたり、大連市の満鉄調査部に入社。ロシア語の読み書きの才能を活かし、ソ連についての研究書の執筆やロシア語の翻訳や通訳など、語学関連分野で活躍した。

収容所は、そんな彼の功績や個性、尊厳を奪った。いや、彼だけでない。収容所ではすべての人が、意志を持たないもののように扱われ、考える気力を喪失させられていた。人は、呼吸をし、食事を摂り、適度な運動をするだけでは生きられない。個人として尊重され、思考することで初めて生きることに前向きになれるのだ。培ってきたものを無価値にされ、尊厳を奪われた時、人はどんな気持ちになるのか。映画はそれを我々に疑似体験させる。

そんな希望を持ちがたい状況の中で、人々に生きようと思わせたのが山本だった。彼が行ったのは“勉強会”だ。勉強会は、ひどい環境で家畜のように扱われていた人々に思考することを思い出させ、改めて「生きて帰るのだ」という希望をよみがえらせた。当初は少なかった勉強会への参加者が徐々に増えていったのは、思考することの“楽しさ”に気づいたからなのだと思う。

“非日常”の戦争から浮かび上がる私たちの現在

山本が最初の勉強会で扱ったのは「万葉集」だった。しかし防人の歌では故郷を思い出し、意気消沈する者が続出する。すぐ「たらちねの 母に障らば いたづらに いましも吾も ことなるべしや」と恋の歌を提供し、山本は空気を変える。この博識。山本の知性が昨日今日備わったものではないことの分かるエピソードだが、演じる二宮がまた、この歌を昔から知っていたとしか思えない調子で詠んだことにも驚かされた。

収容所の人々の尊厳を奪っていたものの一つに、旧日本軍の階級がそのまま呼び名となっていたこともあるだろう。将校だった者は襟に階級章をつけたまま、相手を名前ではなく階級名で呼んだ。山本を常に“一等兵”と呼んだのは、軍曹だった相沢光男だ。「山本です」と反論した彼は、相沢に横っ面を張り飛ばされる。

ともに俘虜として収容所にいる身。階級を主張しても何の意味もないことは、相沢も分かっていただろう。ただ、自分であるだけでは立つことができず、拠りどころとして階級が必要だったのだ。何かを笠に着て弱い立場を叩こうとする人間が上司となる状況は、現在だって珍しくない。観客の中には、そんな実生活の不条理を思い起こす人もいるだろう。きっと、そう思わせることも瀬々監督の演出意図なのだ。「非日常のものだ」と思っている戦争は、簡単に日常を侵す可能性があり、戦場でこんな不条理に直面したら……と考えさせる。

そもそも「シベリア抑留」はなぜ起こったのか?

山本は1944年7月に招集され、36歳で出兵。ハルビン特務機関に配属され、ソ連の情報を翻訳していたことがスパイ行為とみなされ、終戦後、ソ連の国内法により戦犯として25年の重労働が課せられた。ソ連にいたわけではない山本を、国内法で裁けるわけがないのだが――。抑留すること自体とそこでの待遇は、日本が1953年に加入したジュネーヴ諸条約にも、「捕虜を抑留する間の宿舎、食糧、被服、医療・衛生等に関する待遇、捕虜の金銭収入、捕虜の通信・救済品等、捕虜に対する刑罰・懲戒罰の付与」などの点で違反していた。

1945年8月9日、旧満州(現中国東北部)への侵攻を開始した旧ソ連軍の捕虜となり、ソ連に移送された日本兵は約60万人。そのうちの6万人以上が現地で亡くなり、墓碑銘も刻まれないまま白樺の根元で眠っていると言われている。現在の中国黒竜江省にあった牡丹江俘虜収容所に収容された山本は、犯していない罪の欠席裁判で反論の機会なく戦犯となり、スベルドロフスク俘虜収容所に移送、ハバロフスク矯正労働収容所などで強制労働を行った。

本作を観ていて疑問に思ったのは、そもそもなぜシベリア抑留などという非人道的なことが起きたのか? そして、なぜすぐに俘虜解放の交渉が始まらなかったのか? ということだった。ノルマンディー上陸作戦を“救出”という視点から描いたスティーヴン・スピルバーグ監督『プライベート・ライアン』(1998年)は、4兄弟のうち3人が戦死したライアン家の末っ子ジェームズ(演:マット・デイモン)を、ある中隊が死者を出しながら救助に向かう実話ベースの作品だ。ここで描かれる“命”にも理解不能な不平等はあるが、“兵隊”として十把一絡げにされることなく、1人ひとりが名前を持つ人として尊重されていると感じた。

しかし終戦後であるにもかかわらず、日本は捕虜を救出できなかった。ロシア科学アカデミー東洋学研究所所長のエレーナ・L・カタソノワ氏は、スターリン体制下で「社会主義建設のために、無報酬の労働力が必要だったから」ではないかと語っている。一方、ロシア国防省中央公文書館に残された<関東軍文書>からは、敗戦時の交渉で“日本の条件を受け入れるのであれば日本人労働力を提供する”と書かれたものが1993年に発見されている。当時、日本では、兵隊という市民の労働力を条件交渉の材料として使ったのではないかと報道され、話題になった。

二宮和也の存在が“現在と過去”に橋を架ける

山本と、彼を演じる二宮は似ているように思う。知性とユーモアを持ち、機知に富んだ話しぶりで人々を魅了した山本は、照れ屋であったが、忖度なくものごとを口にできる人物だった。そんな山本の人間的魅力が、収容所で彼が行っていた勉強会や句会の支持者を増やした。

映画の中では、山本と妻のモジミ(北川景子)、彼らの子どもたち以外、実在の人物は登場しない。戦場で足がすくんだ自分を許せない松田研三(松坂桃李)、漁の最中に連行された足の不自由な新谷健雄(中島健人)、山本にロシア文学の素晴らしさを教えた同郷の先輩・原幸彦(安田顕)、そして相沢光男軍曹(桐谷健太)も、実在した抑留者の要素をそれぞれのキャラクターに凝縮させて描いている。

瀬々監督は、そんな彼らのディテールを、映画的な流れを損なわないぎりぎりまで詳細に描くことを試みる。彼らの背景や人としての魅力が伝わり、何もないところから人間の尊厳を保つものを生み出すのを見つめていく中で、収容所の話であることを忘れそうになるくらい、映画は面白くなっていく。

だが、人間ドラマがいくら面白くても、それが描かれる舞台はやはり収容所〈ラーゲリ〉だ。この映画では、興味を惹かれるものも、目をそむけたくなるものも、同時に描かれる。そんなアンビバレントな要素を一つの映画の中につなぎとめる役目を果たすのが、二宮和也という俳優だ。または瀬々監督の共犯者として、過去と現在に橋を架ける存在になっているとも言える。

「ラーゲリ」の真実から我々は何を得るか?

山本はよく、澄んだ青空を見つめている。川で、山で、風を感じている。残念ながら彼の感じている空気を、スクリーン越しに味わうことはできない。それを想像させてくれるのは、山本の、二宮の発する“声”だ。彼が勉強会で詠む和歌、彼の歌うアメリカ西部開拓時代の民謡「いとしのクレメンタイン」、そして家族に宛てた手紙を読む声――。そんな二宮の声が空気を震わせる。その空気は我々を包み、山本が浴びているであろう極上の風を体験させる。

映画『ラーゲリより愛を込めて』の原作「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(文春文庫)。読売新聞と角川書店の募った「昭和の遺書」に、山本モジミさんが寄せた夫の“遺書”がベースになっている。この山本幡男さんの遺書を核に、ノンフィクション作家の辺見じゅんさんが、長い時間をかけてシベリアに抑留された人々や関係者に取材してまとめた。第21回大宅壮一ノンフィクション賞、第11回講談社ノンフィクション賞を受賞している。

シベリア抑留者の最後の帰国船がナホトカ港を出たのは、終戦から11年後の1956年12月22日。この長きにわたる抑留生活。自分ごとなら、と考えると恐ろしい。この年はくしくも政府が、経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言した年。シベリア抑留者が生きる希望を失いかけていた10年で、日本のGDP(国内総生産)は戦前の水準を上回り、持つ者と持たざる者の差を広げた。

今だからこそ、二宮が過去を現在につなげたこの映画が尊重するものに心寄せたい。心震わせるそれらから、私たちはどれだけ発見できるか、観る感覚を研ぎ澄ませよう。

文:関口裕子

『ラーゲリより愛を込めて』は2022年12月9日(金)より全国公開

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