終戦後、ソ連の一方的な裁判で戦犯扱いされ、半数近くが11年以上もソ連の収容所に抑留された長期抑留者にスポットを当てた企画展の2期「残されし者たち」を平和祈念展示資料館にて来年1月11日(水)から開催!

第二次世界大戦における兵士、戦後強制抑留(いわゆるシベリア抑留)、海外からの引揚げに関する資料を展示する平和祈念展示資料館(所在地:東京都新宿区西新宿)は、終戦後、ソ連軍によって、シベリアをはじめとするソ連(現・ロシア)やモンゴル領内に連行された約60万人のシベリア抑留者が、日本の家族とやり取りした「往復葉書」を展示する、2022年度 抑留企画展『言葉は海を越えて 収容所(ラーゲリ)と日本を結んだ葉書』の2期を、2023年1月11日(水)~4月23日(日)まで開催する。 休館日は毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)と、新宿住友ビル全館休館日の2023年2月5日(日)。入館料は無料。

※1期:異国の丘にて[1946-1950]は、2023年1月9日(月・祝)までの開催。

「残されし者たち[1952-1956]」と題した2期は、1950年以降も引き続き収容所に抑留された「長期抑留者」にスポットを当て、1952年4月~1956年12月まで、家族とやり取りした「郵便葉書」と呼ばれる往復葉書を中心に、長期抑留にまつわる資料など、合計約100点(会期中の展示替え後の資料を含む)を展示する。

2期の見どころ

2期では、辺見じゅん著『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(1989年、文春文庫刊)を原作に、12月9日全国東宝系で公開する映画『ラーゲリより愛を込めて』の主人公のモデルとなった山本幡男(やまもと・はたお)氏と家族をつないだ郵便葉書を紹介する。

※山本幡男氏の郵便葉書は、ご遺族から借用した現物を複製しました。

1941年頃の山本幡男氏 ※山本幡男氏遺族 所蔵

山本氏と同じ収容所にいた東京外国語学校(現・東京外国語大学)の先輩で、南満州鉄道(満鉄)時代に直属の上司だった佐藤健雄(さとう・たけお)氏は、日ソ国交回復後の1956年12月、ソ連・ナホトカ港から京都府・舞鶴港へ向かう、最後の引揚船で帰還した長期抑留者。 2期では、同氏が収容所で描き、日本に持ち帰った絵画なども展示する。

佐藤健雄氏が収容所で描いた絵画「望郷」 ※佐藤健雄氏遺族 所蔵

当初は長期抑留者が帰還する際も、一般抑留者と同様に、文字が書かれた紙類の持ち帰りは禁じられていた。 しかし、1956年10月、日ソの国交が回復すると、ソ連は自国のイメージを少しでも良くしようとして、紙類を含む身の回りの品はもちろん、現地の土産物を日本に持ち帰ることすら許した。 また、2期では、最終引揚船で帰還した長期抑留者のご遺族から、2022年夏、当資料館に寄贈された新収蔵品も初展示する。

娘が父に宛てた郵便葉書の返信 ※新収蔵品。平和祈念展示資料館 所蔵

約半数が日本への帰還を11年以上許されなかった「長期抑留者」

ソ連は、独ソ戦(1941~1945年)で約2,600万人の死者を出し、多くの労働人口を失った。そこでソ連は、終戦後、満州(現・中国東北部)、朝鮮北部・南樺太(現・サハリン島南部)・千島列島に駐留していた日本人約60万人を、ソ連やモンゴル領内の収容所(ラーゲリ)へ連行し、戦後復興と国土開発の労働力として利用した。 収容所に連行された約60万人の人々は「抑留者」(通称、シベリア抑留者)と呼ばれ、極寒の地で、貧しい食事と劣悪な生活環境を強いられ、危険で過酷な強制労働などに従事させられた。 その結果、1割にあたる約6万人が命を落としたが、生き残った抑留者のほとんどは、1946年12月の米ソ協定の成立によって、1950年4月までに帰還を果たした。 1950年4月、ソ連は、まだ抑留者が残っているにもかかわらず、抑留者の帰還は完了したと発表し、一方的に帰還を打ち切った。 そして、日本軍や満州国の元高官、スパイ活動・ソ連研究・生物化学兵器の研究に関与した人など2千数百人を、1949年頃から開いた一方的な裁判によって「戦争犯罪人(戦犯)」として扱い、引き続き抑留。こうして1950年4月以降もソ連に残された人々を「長期抑留者」という。 日本への帰還は、1953年12月に始まったが、半数近くは、日ソの国交回復後の1956年12月まで、約11年間にわたって抑留された。

一般抑留者の「俘虜用郵便葉書」、長期抑留者専用の「郵便葉書」

何年も音信が途絶えた抑留者と家族が、互いの安否を確かめ合う唯一の通信手段は「往復葉書」だった。 1950年4月までに日本に帰還した抑留者(以下、一般抑留者と表記、長期抑留者と区別するため)の多くは日本軍の兵士で、捕虜(俘虜)として扱われた。本来、捕虜である抑留者と母国との通信は国際法で保障された権利だったので、連行されてから約1年後の1946年になって、わずかな枚数の往復葉書が収容所で支給されるようになった。 1946年10月~1950年頃まで、一般抑留者は、支給された「俘虜(ふりょ)用郵便葉書」と呼ばれる往復葉書で、自身の消息を家族に知らせることができた。 しかしながら、ソ連は、終戦後に約60万人を連行し、劣悪な生活と強制労働を課した結果、約6万人を死亡させたなど、国際法に違反する事実を隠蔽するために、俘虜用郵便葉書に厳しい検閲を行なったので、葉書に書ける内容は限られ、収容所の場所や暮らしぶり、作業や労働の内容、ソ連に対する批判、亡くなった戦友の話などは、書くことが許されなかった。 一方、戦犯扱いの長期抑留者は捕虜ではないとされ、何年にもわたって家族との連絡が禁じられていた。 ようやく1952年4月に「郵便葉書」と呼ばれる専用の往復葉書の使用が認められ、ソ連の厳しい検閲を受けながらも、1956年12月まで、家族や友人と何十枚もの葉書をやり取りした。 一般抑留者の「俘虜用郵便葉書」と、長期抑留者の「郵便葉書」は、支給枚数のほか、往復にかかる期間が異なった。俘虜用郵便葉書は相手に届くまでに何カ月もかかったが、長期抑留者の「郵便葉書」は早ければ数週間でやり取りされることもあった。

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