『小嶺忠敏監督死去』 国見ユニホーム誕生秘話 12年ぶり、最も似合う場所へ <長崎スポーツこの1年>

最後まで現役指導者としてグラウンドに立ち続けた小嶺氏(下段右端)=大村市、古賀島スポーツ広場

 青と黄色の配色が鮮やかな国見のユニホーム。そのルーツを教えてもらったのは、亡くなる半年ほど前だった。
 「あれはね、実は娘に決めてもらったんだよ」
 高校サッカーで島原商、国見を17度の全国優勝に導き、最後は長崎総合科学大付の現役監督として今年1月に死去した小嶺忠敏氏(享年76)。その語り口はいつもユーモアにあふれ、豊富な話題には驚きが詰まっていた。
 「まあ、座らんね」。グラウンドには小雨がぱらついていた。小嶺氏はお構いなしにパイプいすに腰掛け、当時を振り返り始めた。
 島原商を日本一に育て上げた後、30代後半で国見へ赴任した小嶺氏。数年たったある夜の晩酌中、新しいユニホームのデザインに頭を悩ませていたという。
 赴任当初の国見は白地のシンプルなユニホームだった。それはそれで悪くなかったが、チームも強くなってきたし、どうせなら目立つ色にしたい。「信号機はどうだろうか」。赤、黄、青の3色縦じまのデザインを自ら考案した。だが、いざサンプル品を取り寄せてみると、これがどうもしっくりこない。
 「どう思う?」
 意見を求めた先が長女ゆりさんだった。当時中学生だった少女は、部屋に広げられたド派手なユニホームを見て、率直に意見をぶつけた。
 「ちぐはぐに見えるよ。青と黄色の2色に変えた方がいいんじゃない?」
 このひと言が決め手となり、後に数々の偉業を打ち立てるユニホームが誕生した。
 それでも青黄を大胆にあしらったデザインは斬新で、当初はみんなから「おかしい」と笑われたそうだ。だが、テレビに何度も映るようになるにつれて好評となり、今や高校サッカー史上で一、二を争う有名な勝負服になっている。
 国見は今でも青と黄色の縦じまデザインで戦い続ける。そしてこの冬、実に12年ぶりとなる全国高校選手権への出場を決めた。小嶺氏の死去から間もなく1年。サッカーと教育に人生をささげた名将の思いが詰まったユニホームが、最も似合う場所へと帰ってくる。


© 株式会社長崎新聞社