稲盛さんが声を上げて泣き出した。かつて反発したJAL社員たちが作った感謝のビデオメッセージに。再上場した年の歳末の日。「今日は良かった」とつぶやく声に胸が熱くなった

稲盛和夫さん

 京セラやKDDIを創業し、日本航空(JAL)再建に尽力した京セラ名誉会長の稲盛和夫さん=鹿児島市出身=が8月下旬、亡くなった。日本を代表する経済人になってからも鹿児島を愛し、支えた「経営の神様」。薫陶を受けた人々に、心に残る教えや思い出を聞く。

■MTG会長 大田 嘉仁さん(68)

 2009年、稲盛和夫・京セラ会長の元に、日本航空(JAL)再建の依頼が来た。しばらく断り続けたが、最終的に3年間、無報酬の約束で引き受けた。22歳若い私も「一緒に来てくれ」と声をかけられ、覚悟を決めた。会長就任発表の日、メッセージを代読したのは私。「先約が優先や」と、本人はハワイの盛和塾開塾式へ出掛けていた。

 特命秘書になった1991年当時、稲盛さんは第3次行革審の部会長だった。官僚や国会議員の抵抗を受ける姿を見ていたが、JALでの苦労はその比ではなかった。社員らの反発は激しく、主に意識改革を担当した私も、大いに悩んだ。

 稲盛さんは、ひるまなかった。会議は根回しせずに鋭い質問を飛ばし、自ら現場の社員に協力を求めて頭を下げ、コンパで共にビールを飲む。文字通り無償の愛で、「ここまでやってくれるのか」と社員らの心をほぐしていった。

 マスコミは「無報酬なのは責任感がないから」とたたいたが、とんでもない。稲盛さんは常に「JAL会長」の矜持(きょうじ)を忘れなかった。出張でファーストクラスに乗る時も、ネクタイを緩めず背筋を伸ばして座った。少しは楽にしてほしかったが「世間からすれば俺はJALの人間や。そんな姿見せられるか」と拒まれた。

 「俺の辞書に否定的な言葉はない」というのが口癖で、不安を口にした若い社員を「明るいこと、善きことを思えば、その通りになる」と励ましていた。誰もが難しいと考えていたJAL再建だったが、約束通り12年に再上場を果たせたのは、稲盛さんの前向きな強い意志と、信じる力が伝わったからだろう。

 その歳末、伊丹空港で働く社員たちが、稲盛さんへ感謝を伝えるメッセージビデオを作ったと聞き、出張から伊丹に戻ってきたところを、半ば強引に社員たちの元へ連れて行った。家に直行するつもりだった稲盛さんはご機嫌斜めだったが、ビデオを見ながら声を上げて泣き出した。帰りの車中で「今日は良かった」とつぶやく声が聞こえた。私も胸が熱くなった。

(連載「故郷への置き土産 私の稲盛和夫伝」より)

日本航空が再上場を果たし、記念写真に収まる稲盛和夫さん(前列左)と大田嘉仁さん(前列右)ら=2012年9月、東京都内

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