■岩松 陸雄さん(83)鹿屋市大姶良町
「昭子の手を離すな。満人にさらわれる」。母・敦の声が今も耳に残る。小学1年だった1946年夏、その言葉を聞いて4歳の妹の手を握りしめた。旧満州(現中国東北部)の奉天(現瀋陽)から引き揚げ船が出る葫蘆(ころ)島を目指した。南西へ約300キロの道のりだった。
軍事郵便局に勤めていた父・近光はソ連に連れ去られていた。母は背中にリュックサック、胸に1歳になる下の妹・奉子を抱え、自分の腰と私の手首を帯締めで結んだ。「絶対に離れたらいけない。これから危険がいっぱいあるんだ」と実感させられた。
現地で生まれ、戦争が終わるまでは不自由を感じることなく生活していた。紅梅町にあった石造りの長屋式の社宅で暮らし、中国人と朝鮮人のお手伝いさん2人を雇っていた。父の通勤には兵隊が付き添い、幼稚園に行く時に馬に乗せてもらったのを覚えている。
45年8月15日、社宅の庭に入居者が集まった。大人たちから「戦争は終わったんだよ」と聞かされた。1、2カ月たった頃、ソ連兵が大人の男だけを連行した。「お父さんは先に日本へ帰って待っている」。母からはそう聞かされた。シベリアに抑留されたのは後で知った。
ソ連兵は何度か押し入ってきて金品を物色した。怖かった。隣家に逃げ込めるよう押し入れに穴を開けて布団で隠していた。しばらくすると治安が良くなったと記憶している。
引き揚げは奉天の駅で列車に乗り込んだ。屋根がない貨物車で、すし詰め状態だった。コーリャン畑が広がる所で突然止まった。車内で子どもが亡くなり、埋葬するという。「夏だから腐る。日本に連れては帰れない」と誰かが話していた。動き出す列車から飛び降りようとするその子の母親を、周りの人たちが懸命に引き止めていた。
葫蘆島までどれくらいかかったか記憶がない。港に着き、米軍の輸送船の大きさに安心した。「これで内地に帰れる。ご飯も腹いっぱい食べられるよ」。母のほっとした表情が忘れられない。母乳があまり出なかったのだろうか。奉子はやせ細って2歳まで歩けなかった。
京都の舞鶴港への航海中に亡くなる人もいた。布の袋に包まれ、海に送り出された。昭子は「水葬」という言葉をこの時に覚えたと言っていた。
鹿屋市大姶良の父の実家とは終戦から音信不通になっていた。祖父母は「お前たちが帰ってくると信じていた」と、ミカンの缶詰を食べさせてくれた。鹿屋に入った米軍の軍事物資の残りを手に入れ、大切に保管していたらしい。
約1年後の47年秋、父が突然帰ってきた。亡くなるまでシベリア抑留については多くを語らなかった。ただ子どもたちが食事を残すと、晩酌しながら決まってこう諭した。「食べ物が十分になく同僚は凍死したり、逃亡して殺されたりした」
戦後生まれの弟2人が加わり、5人きょうだいになった。両親は人を集めて、ごちそうを振る舞うのが大好きだった。食べられる幸せを感じていたのだろう。笑顔で食卓を囲める喜びを教えてくれた2人に感謝している。