旧陸軍 毒ガス工場の証言者 藤本安馬さん(96)死去 広島・大久野島の歴史「忘れろと言われても忘れない」

広島・竹原市の大久野島で旧陸軍の毒ガス製造に従事し、戦後、“加害の歴史” を証言してきた 藤本安馬さんが11日、亡くなったことが分かりました。96歳でした。

竹原市 忠海沖に浮かぶ周囲およそ4キロの大久野島です。毎年、多くの観光客が訪れ、「ウサギの島」とも呼ばれますが、忘れてはならない別の一面があります。

大久野島では、旧陸軍が昭和2年(1927年)、「毒ガス工場」を建設…。

最盛期で常時、6000人余りが働いていたとされていて、島の存在は終戦まで日本の地図から消されていました。

亡くなった三原市の藤本安馬さん(96)は、1941年、14歳のときに「お金をもらいながら勉強できる」と言われ、大久野島に渡りました。

寄宿舎生活で毒ガスの製造方法を学び、ほぼ手作業で化学物質を扱っていたといいます。

「毒ガスで敵を殺すことは当たり前」…、そう教え込まれました。

養成工として製造に携わった 藤本安馬さん(96)※ことし5月JNNのインタビューで
「しっかりぶち鍛えられた養成工。化学方程式。毒ガスの方程式を忘れるということは、戦争人間であったということを忘れることになる。忘れろと言われても忘れない。忘れることができない」

罪の意識は、何年経っても消えず、18年前、藤本さんは中国・河北省を訪れています。

日本軍が毒ガスを使ったとされる北たん村への「謝罪の旅」。家族を失った人たちに毒ガスを作ったことを告白しました。

藤本安馬さん(96)※ことし5月JNNのインタビューで
「『平和とは何ぞや』と言われたときに、その答えが出てこないんだ。反省がなければ。大久野島の過去は、毒ガスを作っていたという歴史は、通り過ぎていくんだ」

慢性気管支炎や胃がんを患い、胃を切除した藤本さんは、病と闘いながら、毒ガスの非人道性を “加害の歴史” として若い世代を中心に伝えてきましたが、ことし秋に体調を崩し、入院していました。

親族によりますと、藤本さんは入院先で静かに息を引き取ったということです。

戦前・戦後を通じ、藤本さんだけではなく、多くの人が毒ガスが原因とみられる後遺症で苦しみながら亡くなっています。当時のことを直接知る人は少なくなっていて、記憶の継承が課題となっています。

広島県によりますと、去年10月3日時点で政府が大久野島の毒ガス工場で働いていたと認定した人は6119人。一方、ことし10月時点で存命しているとみられる838人の平均年齢は93.2歳と高齢化が進んでいます。

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