徳川斉昭の攘夷画策示す書簡発見 倉敷・野崎家 藩士子孫から譲渡

水戸藩主徳川斉昭が米国外交官の撃退を画策した書簡「夷人焼殺之件」

 幕末の尊王攘夷(じょうい)運動の急先鋒(せんぽう)だった水戸藩主徳川斉昭(なりあき)(1800~60年)が、日米和親条約締結(54年)で鎖国が破られた時期に、米国外交使節の襲撃などの攘夷行動を画策したことを示す書簡が見つかったと20日、倉敷市児島味野の「旧野崎家住宅」を管理する公益財団法人・竜王会館が発表した。斉昭の腹心の学者・藤田東湖の子孫から、野崎家に譲渡されていた。研究者は「斉昭の思想、混迷する世相を鮮明に伝える貴重な文書」と評価している。

 斉昭と東湖が交わした書簡類は計16点。55年の「夷人焼殺之件」は、和親条約に盛り込まれた米国の駐日領事を置く条項に反発。江戸に入った米国使節に対して「一時ニ焼殺候」(一気に焼き討つ)▽「精兵の者ニて一時ニ起り立、船中の夷切殺候」(精鋭が蜂起し、船内の外国人を斬る)―などと、過激な計画を記している。別の書簡では、こうした強硬な対応を取れば、外国が日本の武勇を恐れるだろうと述べている。

 水戸藩では、日本の歴史や天皇を尊重する「水戸学」から尊王攘夷論が生まれ、斉昭は幕府の開国政策を強く批判。当時の幕閣と激しく対立した。後に領事になった米国外交官ハリスに対し、水戸藩士が襲撃未遂事件を起こしている。

 14点は新発見の史料で、水戸藩士の子孫が児島郡の郡長に嫁いだ縁で、大正時代に野崎家当主で貴族院議員も務めた野崎武吉郎(48~1925年)に譲られたという。

 解読した横山定・岡山県立博物館副館長は「斉昭の強い姿勢が読み取れる。信頼していた東湖にだからこそ、生々しい思いを伝えたのだろう」と話している。

 また同家の古文書群で、過去に見つかっていた明治維新期の元勲らが交わした書状など約90点も解読。木戸孝允が岩倉具視の長州訪問に感謝した手紙などが確認された。

 今回調査した文書は、来年2月に史料集として刊行予定。一部は1月7日から、改修工事を終えて部分開館する県立博物館(岡山市)で展示する。

 徳川斉昭と尊王攘夷論 斉昭は徳川御三家の一つ水戸藩の9代藩主で、幕末の岡山藩主池田茂政と、15代将軍徳川慶喜の実父。水戸藩では徳川光圀の「大日本史」の編さん過程で、国の成り立ちを明らかにすることに主眼を置いた「水戸学」が生まれた。江戸後期に外国の脅威が高まると、斉昭や藤田東湖らが天皇を敬い外敵を排斥する尊王攘夷論を唱え、幕末の思想に大きな影響を与えた。

徳川斉昭が藤田東湖に送った書簡。中央部に「精兵の者ニて一時ニ起り立、船中の夷切殺候」と記している

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