多様性の街・渋谷の秘密とは?『渋谷学』の著者・石井研士さんが読み解く90年の歴史

日本の繁栄を象徴する街・渋谷を科学する「渋谷学」とは?

―石井先生が取り組まれている「渋谷学」とは、具体的にどのような研究をされているのでしょうか?

石井:渋谷という街を、歴史や民俗・宗教などの視点から科学して、これからの可能性について考え、研究するプロジェクトです。複雑で多様な顔を持つ渋谷の姿を探る地域学として始まりました。

―プロジェクトはどのような経緯で立ち上がったのでしょう?

石井:私が國學院大學へきて副学長を務める際、大学のブランディングの一環として、大学がある「渋谷」という街を意識していきたいという話がありました。そこで立ち上がったのが「渋谷学」なんです。

―國學院大學創立120周年のタイミングでは書籍化もされていますね。どんなコンセプトでつくられたのですか?

石井:『渋谷学』(2017年、弘文堂)のコンセプトは「読みやすい一般書をつくろう」というものでした。よくテレビのニュースやお天気コーナーで中継が映されるくらい、渋谷は「日本の繁栄」を象徴する街とも言えます。さらに、ちょうど渋谷の街が100年に一度レベルの再開発のタイミングだったこともあり、過去の街の写真や図版をたくさん盛り込みながら、街をどう研究できるかという視点でまとめました。

渋谷川と田園風景。田舎だった渋谷の街

―渋谷という街を研究してきたなかで、先生にとって重要だと感じた歴史的エピソードはありますか?

石井:ターニングポイントは、渋谷駅ができた明治時代ですね。江戸時代では、渋谷川に代表されるような川がたくさん流れ田畑に囲まれ、大名の郊外の別荘である下屋敷があるような場所でした。それが1885年(明治18)に渋谷駅ができ、以後は近代的な街として徐々に発展していくんです。ただ、あくまでも江戸城あたりの「中央」から見ると、完全に郊外なんです。

―駅ができても、田舎の位置付けだったんですね。

石井:商業が発展してくるのは、大正の終わりから昭和になってからで、いまのような賑やかな渋谷になるのは、第二次世界大戦後なんです。大正末期の渋谷駅は少しずつ発展してきていますね。駅舎が当時は話題になったらしいです。

―戦争の影響は大きかったんですか?

石井:渋谷も空襲を受けて一部を残して焼けてしまっています。焼け野原になったことで、ゼロから区画整理をする必要があり、新たな渋谷の街づくりにつながっていきます。そこで、ヤミ市の文化ができるんですね。ヤミ市は、渋谷だけでなく、新宿や上野、池袋も大きかった。

―どういった理由で、渋谷や新宿、上野などにヤミ市が集まったのでしょう?

石井:やはり、ターミナルだったからでしょうね。当時、すでに私鉄はできていましたから。上野は東北への入口だし 、池袋は埼玉への入口のひとつで、東武鉄道も入っていました。新宿は中央線が通って東京の奥の方へ行く入口になる。渋谷は、横浜など西の方へ伸びる沿線の入口だったんです。ヤミ市のカルチャーや独特な雰囲気はいまでもあちこち残っています。のんべい横丁とかが代表的ですね。

谷底の地形が生んだ渋谷の色

―ビルやデパートといった近代的なものと、ヤミ市のようなアングラなカルチャーが混在するのには、渋谷にどんな特徴があるからなのでしょう?

石井:さまざまな人やカルチャーが集まってくるのは、渋谷という街の地形が谷底なのと関係があると考えています。銀座線が青山の方からやってきて、地下へ通さず空中に抜けていくのを見てもわかるように、新宿などと比べるとかなり谷底になっているんです。

やっぱり谷底は人が集まりやすく、安心感があるんだと思います。だから、ハロウィンなどでも人が集まりたくなるのかもしれませんね。スクランブル交差点は「人が集まる象徴」になっています。

―渋谷はどのようにカルチャーの聖地になっていくのでしょうか?

石井:渋谷の発展は新宿との関係を抜きには考えられません。1960年代に学生を中心とした安保闘争があったのですが、新宿はその影響を大きく受けていました。

―渋谷にはそういう色はなかったんですか?

石井:新宿に比べると渋谷は開発が遅れていたせいもあり、高層ビルも立たず、あんまりパッとしない印象だったと思います。東急デパートの本館も駅から歩いて10分くらい離れていますし、当時の渋谷名物といえば、「天文博物館五島プラネタリウム(2001年3月閉館)」くらいだった。だけど、色がついていなかった分、その後の発展に大きな影響を与えました。

オリンピック、パルコ、公園通り……新宿と異なる発展を遂げる渋谷カルチャー

―具体的には何が起きたのでしょう?

石井:1964年の東京オリンピックです。その前年の1963年に、東京オリンピック放送のために、NHKが社屋を神谷町の愛宕山から渋谷に移したんです。やはりNHKがあるというのは、相当影響力がありました。NHKだけではなく、映像関係の会社や出版社など、関連企業がこぞって渋谷に集まってくるんです。

戦後さまざまな紛争が起こった後、渋谷という空白地帯にメディア関係の本社が集まることで、戦後日本の経済的な発展・復興を象徴するような場所となり、その後の発展を支えました。

―NHKやメディア関連の企業が渋谷に集まったことで、街の風景にも変化があったのでしょうか?

石井:この渋谷の発展にいち早く目をつけたのは西武でした。1968年に、駅から近い場所に西武百貨店が渋谷店をオープンして、1973年には渋谷パルコをつくりました。これが当時のカルチャーシーンに大きな影響を与えたんです。

いわゆるデパートとは違う、文化的で明るい華やかな消費イメージを伴っていました。パルコは開業当初から、文化の提供・拠点を目指していて、館内に美術館やコンサートホールをつくっていたんです。前衛的な絵を展示したり、新進気鋭のピアニストのコンサートをやったりと、当時からおもしろい企画をたくさんやっていました。イヴ・サンローランのブティックが日本で初めてできたのは、渋谷パルコなんですよ。海外ブランドという「憧れ」の存在があり、「公園通り」という新しい名前がついた通りがある。それが、新宿の繁華街のイメージとは異なっていたし、1970年代の消費文化とも相まって、渋谷はすごく明るい場所になっていきました。

若者が勝手にカルチャーを生み出すのが渋谷らしさ

その流れで、1979年に今度は東急が「ファッションコミュニティ109(現SHIBUYA109)」をつくったのですが、当初は期待していたほどの賑わいはありませんでした。

―意外ですね。なぜでしょうか?

石井:もともとはターゲット層が絞られていなくて、若い人から年配の方までさまざまな人が使う、普通の商業施設だったんです。そこに追い討ちをかけたのが、バブルの崩壊。当然、景気が悪くなり、109に入っていた店が軒並み売り上げを減少させるなか、ある1店舗だけ収益が変わらない店があったんです。それが、ハイティーン向けのファッションブランドの店舗だった。そこで当時の支配人が「これはいけるんじゃないか」ということで、館内の店舗をすべてハイティーン向けに振り切ったんです。

―すごい決心ですね。では、今のようなかたちになったのはバブル崩壊後なんですか?

石井:そうですね。当時の賑わいは本当にすごくて、地方の若者も109を目指してやってきていました。お正月の福袋販売なんかは、前夜から行列ができていて、その列が地下街に何列にもなって続いていました。買ったあとは入口の広場で商品の交換会をするという文化まで生まれました。これは完全に、お客さん側がつくった文化です。80年代に流行った「渋カジ」と呼ばれるファッションも、ファッションデザイナーや企業が提案したものではなく、渋谷に集まった若者が生み出した服装だった。「渋谷系」と呼ばれる音楽もそうですね。当時、私もよくセンター街のあたりを歩いていましたが、独特な雰囲気の個人店なんかも多くて。大きな街なんだけれど、どこか手づくり感がある街の雰囲気がありました。

多様な渋谷を楽しむ4層の人びと

―2027年までにはJR渋谷駅の改築が終わるとのことですが、先生はこの街の大改造どう見ていますか?

石井:この100年に一度とも言われる大開発で、渋谷の街は高層化するのですが、じつはスクランブル交差点とセンター街はほとんど変わらないんです。これまで渋谷の街は、高速道路と明治通りでもって分断されていて、移動がしづらかったんです。それが今回の改修工事で、地下と二階部分で全部平行移動ができるようになり、「渋谷」というエリアがだいぶ拡張されました。それなのに、若者が向かうのは、スクランブルスクエアやヒカリエだけでなく、昔と変わらず交差点からセンター街を中心としたあのエリアの奥へ吸収されていくんです。あの辺には、若者のさまざまな好みが集まったような、多様な世界が広がっているんじゃないでしょうか。

―渋谷にはどういう人たちが集まると思いますか?

石井:私は、渋谷の利用者は主に4層からなっていると考えています。1つは、いわゆる若者たち。センター街や奥渋などで遊ぶ10代、20代の層です。2つ目はシニア層。ヒカリエやスクランブルスクエアに入っているショップも、年齢の高い方を意識したラインナップが多くあります。そして3つ目は、IT・デジタル関係の企業です。IT企業も多く存在します。そして、4層目としてそこに暮らす地域住民もいます。秋頃には地域のお祭りである「金王八幡宮例大祭」も開催されています。各地域の御神輿がSHIBUYA 109の目の前に集まって、ここから各町会へ分かれていくんです。とてもユニークな風景ですよ。休日なので買い物客や若者もたくさんいるのですが、みんなそれぞれの目的を持って行動しているので、立ち止まって御神輿を見る人もいれば、各々の目的地に進んでいく人もいる。浅草のように全員が祭りを楽しむわけではなく、それぞれ自分の楽しみのために渋谷にやってきている。とても不思議な光景ですね。渋谷は、そういった4層の人たちが、無理に融合せず、共存している。むしろそれが渋谷の多様性につながっているんだと思います。違う文化がごちゃ混ぜになっているというよりも、並列して共存している感じですね。

―先生は今後、渋谷という街にどうなっていって欲しいですか?

石井:文化は混沌のなかから生まれます。「曖昧さ」というか、いい意味で混沌とした状態を残しておいて欲しいですね。これまで渋谷の文化はそこに集まる人々がつくりあげてきました。それがメジャーになり、それが「日本の文化」として発信される。パルコも渋谷で誕生し、いまや地方にも展開しています。「アムラー」や「ガングロ」も、渋谷で起こり、日本中へ発信されていきましたしね。なので、私は、日本で新しい文化をつくれる可能性が一番大きい街は、やはり渋谷だと思います。

―渋谷には新たな文化が生まれる可能性が秘められてるんですね。

石井:そう思います。渋谷という街を見ていれば、東京だけでなく、日本の文化の方向がわかるんじゃないかなと思います。渋谷で目立った何かが起きないと、日本の文化や何かを生み出す力が欠けてきているんじゃないかと感じます。渋谷は日本の文化のバロメーター的存在なのかもしれませんね。これからの渋谷の多様で活気あふれる進化を期待しています。

お知らせ

渋谷区は、区制施行90周年を契機に、区の記録をデジタルアーカイブとして広く閲覧できる専用サイト「SHIBUYA CITY RECORD (シブヤシティレコード)」を公開しました。今まで、紙媒体として保管され一般の方に閲覧いただくことができなかった多くの広報紙と、広報写真を、保存・継承を目的としてデジタル化し、専用サイト「SHIBUYA CITY RECORD」にて一般公開しました。昭和30年以降の広報写真970点、昭和23年以降の区広報紙450号分を公開し、今後順次追加します。

https://shibuya-city-record.tokyo/

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