「日本サッカーが世界のトップに君臨することを実現させたい」若き指揮官・福山シティFC監督 小谷野拓夢の3年間

「日本がワールドカップで優勝することに貢献したい」

そう語るのは社会人サッカークラブの福山シティFCを率いた小谷野拓夢監督24歳です。日本サッカー界では異例のキャリアを積みながら、人生をかけて福山の街にスポーツ文化の土台を築いてきた彼の3年間に密着しました。

12月3日に開催された福山シティFCのファン感謝祭。
将来、Jリーグ入りを目指している社会人サッカークラブを3年間率いてきたのが小谷野拓夢さんです。この日が福山シティの監督として最後の1日でした。

小谷野拓夢監督 「僕は次も誰もやったことのない未知なるチャレンジをしたいと思っています。そしていつか必ず日本サッカーが世界のトップに君臨することを実現させてみたい」

小谷野監督が、福山で経験したこと、そして残したものとは…

2020年。
大卒1年目の22歳で監督就任。
大半の選手が年上という環境でしたが、試合の正装が福山デニムパンツという指揮官はJ1から数えて6番目の広島県リーグに所属する福山シティを天皇杯でベスト6に導き、1年目から注目されました。

小谷野拓夢監督 「(なぜ監督に?)誰もやったことのない挑戦だったっていうのが1番大きいですかね。日本で初めてだと思うんですよね、大卒で社会人チームの監督をやるっていうのが」

1997年茨城県生まれ。4歳からサッカーを始め夢はアントラーズの選手になることでした。
茨城・鹿島学園高校ではワールドカップ・カタール大会で日の丸を背負った上田綺世と一緒にプレー。ただ2年生のときに転機が訪れました。スペイン遠征で、海外と日本のサッカーを取り巻く環境の差を目の当たりにした小谷野監督。厳しすぎる上下関係や理不尽な指導法などが日本サッカーの潜在的な問題だと感じ、夢が指導者に変わります。

石川・北陸大3年で学生コーチへ転身。その後の就職先としてJクラブからコーチの話もありましたが、大卒22歳で福山シティFCの監督となりました。周囲からは反対の声もあったといいますが、「監督」経験を重要視しました。

小谷野拓夢監督 「シンプルに学ぶことが好きなんですよね。だから将来的にはサッカーを研究したいなと思ったりするぐらい、サッカーを学ぶのも好きだし、(読んだ本は)論文を合わせると1000はいっているかもしれません。ヨーロッパでいま何が行われているのかっていうのを考えて、でそこのいい部分と悪い部分を自分なりに分析して。日本の文化で育ってきた選手たちに1番いいやり方を、オリジナルで作っていくっていうことをいまチャレンジしていますね」

Q監督の名前の由来って何ですか?
「名前の由来は、親が夢を切り拓くという意味でつけました」
Q今の監督の夢って何です?
「いまの夢ですか?この何もスポーツが根付いてない福山に、福山シティが新たなシンボルとなって、サッカー文化が根付くってことが直近の夢ですかね」
Q人生の夢ってありますか?
「人生の夢は、いつか日本がワールドカップで優勝することに貢献することが1つの夢ではありますね。今年に入ってから1回も遊んでないです、友達と。遊ぶのはいつでもできますからね。別に40、50になっても遊べるじゃないですか。22歳で監督やるのは今しかできないので。時折思いますよ。練習終わるじゃないですか。練習終わったら(昼の)12時くらいで、そのまま事務所に行って夜の10時11時くらいまで作業するんですよ。一人暮らしの家に帰るんですけどそれを365日やっている。なんなんだろうな。俺サッカーオタクだな」

「『何かを得るためには何かを犠牲にしなくてはならない』という言葉を中学校の恩師が言っていたんですよ。それはずっと思っています。やりたいことをあれもこれも全部やっていたら目標達成とか出来ない」

迎えた2年目。23歳の小谷野監督は長年、日本サッカー界が抱える課題とも戦っていました。

小谷野拓夢監督 「なかなか日本サッカーにおいて若いサッカー監督が採用されない現実があるので、そこに自分がひとつチャレンジ出来たらなと思っているので、30代でJクラブの監督になることにチャレンジしたいと思っているし、もっと言うならJリーグでタイトルを30代で取りたいと思っています」

高橋大樹選手
「人生かけてやっている覚悟を感じる」

田中憧キャプテン
「寝ずに分析をしていたと聞いていますし、あれだけやってくれるなら選手もやっていかないと釣り合わない」

小谷野拓夢監督 「自分が2020年1月の中旬に福山に来たんですけど、本当にその時は誰も知らないくらい認知度はなかったんですけど、本当に地域の方々との交流も増えましたし、地域の方々が自分たちを知ってくれて、応援してくれているなとすごく感じます」

広島県リーグを圧勝した福山シティは、勢いそのままに中国リーグ昇格を決めました。

小谷野拓夢監督 「僕の仕事はチームを勝たせることであり、サッカー選手としてうまくすることなので、教育者として人間として成長させることが仕事ではない。全員を満足させるためにいるわけではない。もしかしたら試合に出られないで不満な1年を過ごさせてしまった選手もいるだろうし、物足りなさを感じた選手もいるだろう。その反対にものすごく成長したことを実感できた選手もいたかもしれない。全員が同じ一年を過ごしたとは思ってないです。ただこのチームで戦ったことや俺の指導が今後の人生でプラスになることがあるのであればこの1年は貴重なものだし、そうなって欲しいと思って自分の出せることを100%120%昨シーズンから出してきたつもりです。本当にこれ以上ないチーム作りができたかなと思っています。感謝しかないです。ありがとうございました」

そして監督3年目の今年。カテゴリーが中国リーグに上がっても、攻守で主導権を握るサッカーを展開し、中国リーグを優勝。

JFL昇格をかけた全国大会への切符を手にしました。
その全国大会は12チームが集う全国地域チャンピオンズリーグ。
1次リーグは3日間で3試合を戦うタフな日程で、最終的に上位2チームがJFLに昇格できます。

小谷野拓夢監督 「僕が就任して1番大事な1か月になりそうなので気合いいれて頑張ります」

しかし、2連勝で迎えた1次リーグ3戦目。全国社会人サッカー大会を制したブリオベッカ浦安に0対1で敗れ、1次リーグで敗退。JFL昇格を逃しました。
結果的に昇格を手にした2チームの監督は都並敏史と高原直泰。
ともに日本代表を経験を持つ指揮官でした。アマチュアトップリーグであるJFLをかけた戦いのレベルの高さを実感します。
そして小谷野監督はチームからの慰留を断り、退任を決断しました。

迎えた監督最後の一日。福山に根付いた多くのサポーターが見守る前で、ともに戦ってくれた選手へ思いを伝えました。

小谷野拓夢監督 「君たちに最後の言葉を贈ります。ピッチで味わった悔しさはピッチで取り戻すしかできない。強く、清らかに、サッカーに向き合い続けてくれることを祈ります。本当にありがとう。」

「(退任の理由は?)3年間監督をやらせてもらって、自分の見える景色が良くなって新しい挑戦をしてみたいというのが1番。(福山が)サッカーの街になってくれたら嬉しいですし、その基礎が3年間で作ることができた。発展した時に一緒に戦うときもできたら幸せ、それが実現ができるレベルまで自分が(成長して)そのレベルでいたい」

Q試合で履いた福山デニムは何本?

「3年間で1本です(笑)だいぶ膝も白くなってきました」

Q名前の由来は?

「夢を拓くでひろむと読みます。(イマは)大きい夢ですけど、日本サッカー界をよりよくしていきたい。そこに向けて一歩ずつ道を拓けたらな」

【取材後記】
インタビューをした2021年に語っていた「30代でJクラブの監督に…」という目標から小谷野氏の目標はさらに早まり「20代でS級ライセンスを取得」となりました。その目標のためには2023年にはA級ライセンスを取得できる環境下に身を置きたいとなったようです。
福山シティはJFL昇格とはなりませんでしたが、オフに2人の選手がJクラブからのオファーを受け移籍。指導力の高さ、育成面も評価された証です。
福山シティの関係者に話を聞くと「後任を探す中で、全国を見ても20代で同じような監督は見当たらない」と言います。
異例のキャリアを福山で経験した小谷野拓夢さん。クリスマスイブに25歳を迎える彼がどんなステージで活躍するのか注目です。そして日本サッカー界の環境に新たな風を吹き込み、世界一へ貢献してくれることを期待しています。

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