追悼…2022年にこの世を去った「サッカー界の名人物たち」

2022年もあと少し。今回は「今年この世を去ってしまったサッカー界の著名人」を振り返っていこう。

イヴィチャ・オシム

没年月日:5月1日

2003年にジェフ市原の監督に就任し、「走るサッカー」でチームを強豪に成長させたオシム監督。2006年にはドイツW杯で惨敗した日本代表の指揮を任されたものの、次年度に脳梗塞で倒れてしまったことで退任。岡田武史氏にその後を任せることになった。

そして2009年にオーストリアへ帰国してからも頻繁に日本に関する取材を受けており、老いてなお含蓄溢れるトークで大きな影響を与えてくれる存在であった。5月1日没。享年80歳であった。

工藤壮人

没年月日:10月21日

柏レイソルの下部組織出身。トップチームに昇格後は田中順也とのコンビで活躍し、日本代表にも選出される国内有数のストライカーとなった。MLSのバンクーバー・ホワイトキャップス、オーストラリアのブリスベン・ロアでもプレーし、今年はテゲバジャーロ宮崎でJ3を戦っていた。

主力選手として戦っていたものの、10月2日に体調不良を訴えて検査を受けたところ水頭症が発覚し、手術を受けて治療が勧められていたものの、21日に状態が急変し死去した。享年32歳という若さであった。

シニシャ・ミハイロヴィッチ

没年月日:12月16日

現役時代は左足のフリーキックを得意とするセンターバックとして唯一無二の存在感を示し、黄金時代のイタリア・セリエAで活躍。引退後は監督として様々なクラブを率い、ボローニャでは冨安健洋を指導してアーセナルに送り出した。

2019年に白血病を患っていることが判明したあとも治療と並行しながら監督業に従事していたが、今季は9月6日に解任。その後は治療に専念していたものの、12月16日に合併症のためこの世を去った。享年53歳だった。

ウーヴェ・ゼーラー

没年月日:7月21日

1950年代から70年代にかけて活躍したドイツの伝説的ストライカー。ハンブルガーSVで476試合404ゴールという通算記録を持っており、西ドイツ代表としても72試合で43ゴールを決めた。9歳年下のゲルト・ミュラーと並び、その得点記録は圧倒的だ。

引退後は愛するハンブルガーSVで会長も務めたものの、自身が関与していなかった金融スキャンダルに巻き込まれたことで辞任。今年7月21日にノルダーシュテットにある自宅で死去した。享年85歳。ちなみに、今ウニオン・ベルリンで原口元気らと同僚のレヴィン・エズドゥナルは孫にあたる。

ファビアン・オニール

没年月日:12月25日

黄金期のイタリア・セリエAでもプレーしたウルグアイの名選手。ナシオナル・モンテビデオのスター選手で、後にカリアリ、ユヴェントス、ペルージャでもプレー。技巧派として知られ「魔法使い」という愛称もあったほど。2002年の日韓ワールドカップでは10番を背負って出場したが、その1年後に若くして現役を離れていた。

現役時代からアルコールとギャンブルへの依存症を抱えていたこともあり、引退後は財政的にも健康的にも困難であったという。2020年に肝硬変で入院し、今年49歳で亡くなった。

フレディ・リンコン

没年月日:4月13日

コロンビア代表で84試合に出場した名アタッカー。カルロス・バルデラマらとともに1990年、1994年、1998年とワールドカップ3大会に出場している。短期間ながらレアル・マドリーでもプレーした経験を持っており、その豊かなスピードで多くのゴールを生み出した。

引退後はしばらく指導者として働いていたが、覚醒剤密売マフィアとの関係で拘留されるなどの事件も経験した。そして今年4月11日に車を運転していたところ、バスと衝突する大事故に遭い、頭部を負傷。病院に運ばれ治療を受けたものの、2日後に亡くなった。享年55歳。

ジョディ・ルコキ

没年月日:5月9日

アヤックスの下部組織で育った快速アタッカー。旧ザイールで生まれた後、若くしてオランダに移住したという生い立ちを持っていた。圧倒的なスピードを武器にユース年代では活躍し、トゥーロン国際大会では日本代表を恐怖に陥れて大きな話題になった。

ただシニアのレベルではなかなか成功できず、選手としては世界的な存在にはなれず。2022年には家庭内暴力で有罪判決を受け、さらに5月には親族との口論の末に殴打され、心停止のため死去した。享年29歳だった。

アレクサンドル・コズロフ

没年月日:7月15日

スパルタク・モスクワの下部組織で育ち、ロシアの同世代では最高のドリブラーと期待された選手。ユース年代の代表チームではエース的存在であり、中心的な存在として活躍した。プロとしてはなかなかブレイクできなかったが、ロシアやカザフスタン、アルメニアのクラブでプレーした。

今夏ロシアの2部リーグを戦うゾルキー・クラスノゴルスクで練習参加していたところ、セッションの終了後にマッサージを受けていた際に体調が急変し、そのまま29歳で亡くなった。血栓の影響があったとされている。

ミゲル・ヴァン・ダンメ

没年月日:3月29日

セルクル・ブルッヘの下部組織出身で、2013年にトップチームへと昇格したゴールキーパー。2016年に白血病を患っていることが明らかになり、治療と並行してプレーを続けていた。

2020年に再発した際にはかなり重い状態になっていたというが、免疫療法を受けて一時は回復を見せたものの、今年3月29日に亡くなった。もちろん植田直通のチームメイトでもあった。

ミーノ・ライオラ

没年月日:4月30日

サッカー界で指折りの敏腕代理人として知られたミーノ・ライオラ氏。イタリア出身ながらオランダで育ち、英語やドイツ語、スペイン語、フランス語、ポルトガル語まで操るという言語能力を生かして数々の名選手をマネージメントしてきた。強引な交渉術から金の亡者とも言われたものの、実際自分のオフィスと自宅はモナコの小さなアパートであり、個人的な贅沢は嫌っていたという。

[__【写真】これが「最後のW杯になる」世界のビッグスター10名__](http://qoly.jp/feed/ https://qoly.jp/2022/11/08/11-greats-set-to-play-their-last-world-cup-kgn-1)

今年1月にミラノの病院へ入院した際には定期検査だと伝えられたものの、その後体調の急変が伝えられた。一時はメディアがフライングで訃報を流して否定されるという事件があったが、実際にその2日後に死去が確認された。享年54歳。

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