挽歌の書、戦禍を伝えて 祖母と従兄弟伯父の遺品題材に、平塚・藤原ひさ子さん

挽歌を詠んだ原谷さん(左)と書をしたためた藤原さん=平塚市

 戦争の惨(むご)さを書道で伝える女性がいる。書家の藤原ひさ子さん(73)=神奈川県平塚市。太平洋戦争で戦死した従兄弟(いとこ)伯父と祖母の物語から生まれた挽歌(ばんか)を書にしたためた。開戦から81年。世界ではいまなお戦火がやまず、藤原さんは「戦争に勝利することで、本当に人々が幸せになるのでしょうか」と問いかける。

 藤原さんが従兄弟伯父の存在を知ったのは5年前のことだった。ふるさとの兵庫県丹波市に住む妹から、祖母橋間きぬと、きぬの長男直治の遺品が見つかったと連絡を受けた。後日確認すると、直治の戦死公報や戦地から届いたきぬへの手紙が白縮緬(ちりめん)に包まれ、木箱に入っていた。

 「封印された戦火の記憶がよみがえるようだった」

 きぬにとって直治は唯一の家族だった。直治は大学で農業を学び、農事試験場に職を得たが、間もなくして召集令状が届く。

 木箱には出征祝い当日に撮ったとみられる軍服姿の直治ときぬの写真、戦地からきぬに宛てた手紙も入っていた。干し柿や氷砂糖を送ってくれた母への感謝とともに、「元気でやっているから心配はいらぬ」といった文面が残されていた。

 しかし、便りから数カ月後の1944(昭和19)年6月17日、直治は帰らぬ人となる。享年25歳。隊長から届いた薄っぺらい宣紙には、戦死した状況が記載されていた。

◆無言の叫び

 きぬは戦後、姪(めい)を養女に迎え、後に藤原さんは孫となる。きぬは70年に80歳で生涯を閉じたが、ついぞ直治のことは口にしなかったという。

 「遺品を見つけた時『祖母は泣くことさえ許されず、誰にも話せず、一人墓場まで持って行ったのか』と想像すると、涙が止まりませんでした」

 祖母が口にできなかった「無言の叫び」を何かの形に残したいとの思いに駆られた。学生時代の友人で歌人の原谷洋美さん(73)に「2人の物語を短歌に詠んでもらいたい」と託したところ、快諾してくれた。2カ月後、計65首の挽歌が生まれた。

 ≪手の平に 小さく 納まる 封書にて 戦地の 息子は 母を畏む≫

 ≪十九年六月に 死し 二年後に 届く 通知の 何が 真実≫

 ≪ふるさとに 近き丹後の 白縮緬 かなしみは 花嫁のごとく くるまれ≫

 きぬや直治の叫びが聞こえてくるようだった。藤原さんは65首を色紙や短冊などにしたためた。

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