ニューロティカ×POTSHOT - 新宿LOFT出演回数最多バンドによる渾身企画、その記念すべき第1回目のゲストは絶対絶命のピンチを救った盟友バンド!

POTSHOTのライブを観て、この世界へ飛び込んでいかなきゃ! と思った

──お二人がバンドマンとして盟友関係にあり、RYOJIさんが主宰する〈TV-FREAK RECORDS〉のレーベルメイトだったことは周知の事実ですが、わが新宿LOFTの歌舞伎町移転直後の柿落とし公演(1999年4月29日)で共演していただいたことを思い出しました。

RYOJI:そうでしたね。1週間の柿落とし公演の中の一つとして出させてもらって。

アツシ:あれは僕らのCD(『絶対絶命のピンチ!!』)を出す前?

RYOJI:前ですね。もうCDを出すのが決まっていた頃だったのかな?

北島(TV-FREAKの流通会社UK.PROJECT):いや、まだ決まってなかった。CDを出してほしいと、あっちゃんが押しかけてきたのはその後。最初はあっちゃんが、JUN SKY WALKER(S)の小林(雅之)くんにPOTSHOTのライブを観に来ないかと誘われたんですよね。

アツシ:そう、まーちゃんに「新しくバンドに入ったから観に来てよ」と言われて。それでON AIR WEST(現・Shibuya O-WEST)へ観に行ったらとんでもない世界が繰り広げられていて…。確か小島も出てたのかな。これは今すぐにでもこの世界へ飛び込んでいかなきゃ! と思ったね。バンド・ブームを潰した後はスカパンク・ブームを潰すか!? と意気込んだ(笑)。

──前提としてまずニューロティカとジュンスカの関係性があったわけですね。

RYOJI:コバさんには最初ツアーサポートで叩いてもらっていたんですけど、面白かったらしくて、できればこのまま続けたい! と言ってくれまして(小林雅之は1998年4月にサポート参加、同年6月に正式加入)。だけど当時は事務所にも所属してなかったし、全部自分たちで動いていた時期だったんです。CDはUKPから出せていたけど、リハもまだ割り勘でやっていた頃で。そんな感じですけどいいですか? とコバさんに訊いたら、それでもいいからぜひやりたいと言ってくれて。コバさんとしてはこちらと仲良くなろうってことで、たとえば「ニューロティカのライブに一緒に行く?」「○○と飲みに行くけど一緒に行く?」とかいろいろ誘ってくれて、その流れで僕もJACKieさんが最後の頃のニューロティカを観たんです(JACKieは1998年10月脱退)。あっちゃんが僕らを見てくれたのと、僕が新しいニューロティカを見たのは同じくらいの時期だったと思います。まだそんなに馴染みもないのにライブの打ち上げに連れて行かれて…あの頃のニューロティカの打ち上げって凄かったんですよ。居酒屋の広い座敷に100人くらいいて。しかもあっちゃんが気を利かせてくれて、僕をメンバーのそばに座らせるんです。そういう場でJACKieさんと初めて会ったとき、「会ったことあるよね? 夢の中で」といつものキメ台詞を言われたんです(笑)。

──リスナーとして聴いていたニューロティカのあっちゃんと、ギャップはありましたか。

RYOJI:イメージ通りでしたね。打ち上げは賑やかで楽しくて。ハードコア・パンク全盛の時代に日本のパンクに楽しさを導入したパイオニアですからね(笑)。僕自身、世代的にバンドブームの時代の音楽は大好きだったんですけど、その後、少し大人になってきて、USインディーズ・シーンとかも聴いてたので、メジャーのレコード会社の関わり方を含め、あの終わり方は格好悪いなと正直思っていたんです。また、たまたまアメリカのインディーズ・レーベルのASIANMAN RECORDSにデモテープを送ったことでラッキーにCDデビューできたこともあって、上の世代とはまた違うことをやりたいし、僕らの世代で楽しくやりたいと考えてレーベルを始めてた頃で。ジュンスカも解散していたし、ニューロティカはレコード会社との契約がなくなって主要メンバーも抜けていって、世間的にはドン底の時期なはずなんですけど、新メンバーを迎えてバンド活動を続けていく強い意志を感じたので凄いなと思いました。

──ニューロティカとPOTSHOTによる歌舞伎町LOFTの柿落としライブは、POTSHOTのお客さんが9割でニューロティカのお客さんが1割だったそうですね。それなのにRYOJIさんがギャラを折半にしたという有名な話がありますが。

アツシ:そうそう。本当にこんなにもらっていいの〜?! ってビックリして。そのおかげで僕らは機材車を買えて、ツアーを回れることになったんです。

RYOJI:ツーマンの冠でやるなら五分に分けるのが筋だと思うので。

アツシ:その柿落としのライブは覚えてるよ。僕らが出たとき、ヘンな奴らが来たぞというフロアの微妙な空気をビンビンに感じたので(笑)。

RYOJI:僕も覚えてます。WネームのTシャツを配ったライブですよね。あと覚えてるのはダイブが凄くて、アンコール最後の曲でケガ人が続出したんです。そのライブを機に、歌舞伎町LOFTはダイブ禁止をちゃんとアナウンスするようになったと聞きました。「今日はちょっとダイブが酷かったな」と終演後にシゲさん(ロフトプロジェクト前代表、故・小林茂明)に言われた記憶があります。

アツシ:そうだ、ケガ人がけっこう出たよね。その後、ARBのライブで僕が最初にダイブしたんだけど(笑)。それでまたLOFTでダイブが始まった(笑)。

──歌舞伎町LOFTでの共演後、あっちゃんがデモテープを持ってRYOJIさんにリリースをお願いしたわけですね。

RYOJI:そうですね。シズヲさんが加入したので、良かったらどうかな? みたいな感じで。あのデモはJACKieさん時代の曲ですか?

アツシ:違います。カタルを中心にメンバーが頑張って新曲を作ってくれて、JACKieがいた時期の曲は一切やってなかったから。

ニューロティカに「速くてメロディアスな曲を増やしてほしい」とリクエスト

──〈TV-FREAK RECORDS〉からリリースされた3枚…『絶対絶命のピンチ!!』(TV-036 / 2000年5月発表)、『スイカマン』(TV-061 / 2001年8月発表)、『穴をふさげ!』(TV-067 / 2002年9月発表)はニューロティカにとって第二の黄金期と呼べる作品群だし、そうしたバンドにとっての重要作がRYOJIさんのレーベルからリリースされたのは浅からぬ縁を感じますね。

RYOJI:タイミングも良かったんだと思います。Hi-STANDARDのおかげでメロコアが日本でも認知され、その先駆者として再評価されるべき存在でしたので遂に時代とリンクしたんだと。

アツシ:あの時期、POTSHOTから始まって、GELUGUGUやロリータ18号、その後の175Rや氣志團、宮藤官九郎さんとグループ魂などは今でも恩人だと思ってるんです。特にPOTSHOTとRYOJIくんがいなかったら、今のニューロティカはなかったね。

RYOJI:あっちゃんはそう言ってくれるんですけど、その状況を乗り切ったニューロティカも凄いと思います。さっき客層が9:1の話がありましたけど、当時は地方へ行くとニューロティカのことを知らない僕らのお客さんがけっこういたんです。ニューロティカがステージに出てもお客さんの頭上に“?”マークが浮かぶような状況で、一緒に回った名古屋のダイアモンドホールは客席の1,000人が全員“?”マークでしたから(笑)。「ピエロの格好をしたヘンな奴らが出てきたぞ!」って(笑)。だけどニューロティカは持ち時間の30分をきっちりとやり切るんですよ、ネタも含めて。その後、徐々に「ニューロティカは面白くて楽しいバンドだ」という空気になっているのが会場の後ろから見ていても分かるようになったんです。バンドブームを経験して、一世風靡していたのに今や誰も自分たちのことを知らない状況に心が折れてしまう人たちもいると思うんですよ。

アツシ:そんなことすっかり忘れてた。今なら間違いなく心が折れてるよ(笑)。

RYOJI:でも、POTSHOTのお客さんにも「ニューロティカ、格好いいじゃん」と思われるまでやり切った凄さが当時のニューロティカにはありましたよ。それはいま自分が歳を重ねて余計に思います。若い世代のバンドとたまにライブをやると、ああ、こういうことをあの頃のニューロティカはずっとやっていたのか…と思うことがあるので。

アツシ:当時は全く余裕もなかったし、打算的に考えるとかは一切できなかった。ただ、ニューロティカのことが好きだと言ってくれたバンドのライブには全部行ったね。打ち上げにもちゃんと出てバカやって、「じゃあ3カ月後にライブね」と約束を取り付ける。このあいだPIGGSとの対談でも話したけど、移動に使う自転車のカゴが酔ってコケてボロボロになって(笑)。

RYOJI:中野で飲んでいた頃は自転車移動でしたね。その後、高円寺のJOEさん(G.D.FLICKERS)の店へ移動して。最後はあっちゃんがラーメンを食べたくなって店を探すんだけどどこも開いてなくて、しょんぼりして自転車を押しながら帰るという(笑)。

──『絶対絶命のピンチ!!』は、オリジナル作品としては前作の『崖っぷちのDANCE~前進前進また前進』から5年以上も空いていたし、メンバーも一新した作品ということで並々ならぬ気合いが入っていたんですか。

アツシ:久しぶりだったし、ここで終わるわけにはいかないし。ただ当時は、とにかくPOTSHOTを中心とした輪の中に入りたかった。CDを出してもらうのもその輪の中に入れると思ったからだし。

──〈TV-FREAK RECORDS〉としてもニューロティカの3作品は好調なセールスを記録したアイテムだったのでは?

RYOJI:そうですね。今でもそのニューロティカの3作がPOTSHOT以外では一番売れてるんじゃないですかね。ニューロティカもその時代にターゲットを合わせて作ってきてくれましたし、ベストなタイミングだったんだと思います。ただ、最初にもらったデモテープを聴いて、僕は生意気にも注文を出してしまったんですよ。

──どんなことですか。

RYOJI:当時のニューロティカはわりと本格的なロックをやりたかったと思うんです。だからミドルテンポや8ビートの曲が多かったんですけど、レーベルとしては僕が若いときにトキめいたような速くてメロディアスな曲、笑顔で唄えるような曲が欲しくて。それで「申し訳ないんですけど、速くてメロディアスな曲を増やしてもらえませんか」とお願いしたんです。

アツシ:そうだ、それでデモを練り直した。

RYOJI:曲作りの中心を担っていたカタルさんは、すでにTHE LOODSやLOUD MACHINEでキャリアのある人でしたし、そんなことを年下に言われてなんだこの野郎! と思ったと思うんです。でも僕のリクエストを受け入れてくれた結果、速い曲主体の『絶対絶命のピンチ!!』というアルバムが生まれたんですよ。そうやって年下である僕の言うことにも真摯に向き合ってくれたことに心意気を感じたというか、こんな若造の意見もちゃんと取り入れてくれるんだと嬉しく思いましたね。

北島:実際、そういう速くてメロディアスな曲がライブでウケてましたからね。一番初めのダイアモンドホールとかでは微妙な空気で盛り上がらなかった曲もあったのが、修正されていったんだと思います。

みんなが元気なうちはPOTSHOTをやっておこう

──当時のあっちゃんは旧メンバーを見返してやるぞという思いもあったんですか。

アツシ:なかったね。そんなことを考える余裕は全然なかった。ウチをずっと応援してくれていたABCマートの(谷津)薫がやっていた『厳しい業界』ってイベントで、ウチと、ウチを辞めた修豚がSHONと始めた30%LESS FATを一緒にやらせたがっていたけど、僕はロティカを辞めた人間が、また新しいバンドを始めて複雑な気持ちがあったので「30%が出るなら出ない」とずっと断ってた。それから〈TV-FREAK〉からCDを出して、東名阪なら500人くらい入るようになってから、JACKieのバンドと30%とウチらで名古屋と大阪を回ったんだよね。ウチのワンマンにゲストで呼んで、オープニングで出てもらってさ。「俺のほうが人気があるんだよ!」って見せつけてやろうと思って(笑)。

RYOJI:いやらしい(笑)。

アツシ:で、そのときは昔のニューロティカの曲は一切やらなかった。〈TV-FREAK〉の曲だけで名古屋と大阪をやり切った。JACKieのバンドと30%に「どうだ、お前ら! 頑張れよ!」って(笑)。それで終わり。

RYOJI:当時、ニューロティカの旧メンバーに会うと、みんなに「CDを出してくれてどうもありがとう、あっちゃんのことよろしくね」と言われたんです。修豚さんにもJACKieさんにもSHONさんにも。バンドをやめてもみんなニューロティカのことが大好きなんだなと思って。

──『絶対絶命のピンチ!!』ではゆでたまごさんに、『穴をふさげ!』ではみうらじゅんさんにそれぞれジャケットのイラストを依頼していましたが、それも勢いのなせるわざだったんですか。

アツシ:あれは北島さんに「あっちゃんに本当にお願いしたい気持ちがあるのなら、予算は少ないのですが、一度相談してみたほうがいいんじゃないですか。言うのはただなんだから」と言われたから。それで、ゆでたまご先生に電話したら「いいよー」と快諾してくれて。みうらじゅん先生からもすぐにレスをいただけて、本当の大物は話が早い(笑)。キン肉マン、松本清張さんと、とんまつり。凄いよね。

RYOJI:そこからですよね、夏フェスの主催者にも片っ端から電話して。言うのはただだから(笑)。

アツシ:そうそう。本気で出たいと思ってたからさ。北海道の『RISING SUN』を主催するWESSさんや『ARABAKI ROCK FEST.』の主催のGIPさんに電話したら「エッ、本人ですか!?」と凄く驚かれたけど(笑)。

──新宿LOFTで毎月第2水曜日に10カ月連続ツーマンを敢行する『ビッグ・ウェンズデー』の初回ゲストは、POTSHOT以外に考えられないということで選ばれたんですか。

アツシ:そうです。僕の熱烈なオファーに応えてくれて、本当に有難い限りです。

RYOJI:本当に僕らで大丈夫ですか? 解散もしてますし、人気も若さもないんですけど(笑)。

アツシ:ツーマンはいつ以来になるのかな?

RYOJI:いつですかねえ……。東北ツアーを一緒に回りましたよね。その流れで函館まで一緒に行って、札幌だけ別々にやって。

アツシ:その札幌の打ち上げで、ナボちゃんとシズヲが酔って殴り合いのケンカをして(笑)。ギタリストは指が大切だからってナボちゃんがシズヲの指を噛んだりして大変だと聞いて、シズヲの部屋に行ったらナボちゃんがなぜかパンツ一丁でシズヲと仲良く飲んでいました(笑)。

RYOJI:POTSHOTは2005年に解散して、これまで何度か限定復活してきたんですけど、一度解散を経験するとあの当時のあっちゃんの凄さを実感しますね。自分の居場所がなくなっても新しい場所に食い込んでいこうとする覚悟と実行力があったというか。そういうことを何年も前にあっちゃんは実践していたんだなと。当時の僕はただ単に、自分の好きなバンドを若い子たちに聴かせたい気持ちがあっただけなんですけどね。メロコアが流行る前から速くてメロディアスで楽しいパンクをニューロティカがやっていたんだよと若い世代に教えたかったんです。

──今は周囲の期待に応えたくてPOTSHOTを期間限定でやっている感じですか。

RYOJI:自分としてはやり切った気持ちがあって解散して、新しいバンドも始めていたんですけど、改めてPOTSHOTをやると周囲が凄い喜んでくれるんです。フロアにいるお客さんはもちろん、昔お世話になったスタッフがまだ現場にいて喜んでくれて。大阪のグリーンズがやっている『RUSH BALL』って夏フェスは当時大学生バイトだった力武くんってスタッフが出世してて、20周年なんで再結成お願いしますって連絡くれたり、『ARABAKI』の菅さんやSMASH EASTの五十嵐さんなども声かけてくださって、ライブに行くといろんな町で待っていてくれている人がいるんだと実感して、自分の中で徐々に考え方が変わって。それで誰かのお祝い事とか何かの節目にはPOTSHOTをやってみようって気持ちになれたんです。2015年の結成20周年のときはそんな感じでした。そこで自分でも手応えを感じたので、2020年の25周年にはみんな元気だったらツアーを、と話していたんです。そしたらコロナになっちゃって、年間で十何本か組んでいたライブが頭の2本くらいしかやれなくなってしまった。その振替公演が未だに残っていたり、新規の公演オファーが来たりもして今に至る感じです。メンバーはそれぞれメインのバンドがあるので、その邪魔にならないようにやっています。

──主軸が他のバンドに移れば、POTSHOTと向き合う気持ちも多少変化したように感じますがどうですか。

RYOJI:解散前はこれで食べていかなきゃいけないという気負いもあったけど、今はメインのバンドがあった上でのPOTSHOTなので、せっかくやるなら楽しいほうがいいよねという感じでやっています。たとえば、ツアーをやるなら必ず打ち上げをして泊まれる日程にするとか。何なら前乗りもしたりして。そういうのを優先してやっているのでバンドの雰囲気もいいですね。もしかしたら当時よりも仲がいいかもしれない(笑)。いつだったか、トランペットのMITCHYが話していたんですよ。「誰かが病気になったり死んでしまったらもうバンドはやれないんだから、みんなが元気で生きているうちはバンドをやっておこうぜ」って。本人は何気ない気持ちで言っただけなんだろうけど、同世代でも、もう亡くなってしまった仲間もいるので、その言葉が自分の中でずっと引っかかっているんです。

旧ロティカがやってきたことを、カタルとナボがわずか数年でひっくり返した

──あっちゃんは旧メンバーがごっそりやめたときに別のバンドをやろうという発想はなかったんですか。

アツシ:JACKieがやめるときに「もうやめようか」とカタルとナボちゃんに言ったけど、二人に「絶対にやめちゃダメだ」と言われたんだよ。

RYOJI:カタルさんとナボさんの存在は当時のあっちゃんにとって凄く大きかったと思うし、あの二人は凄いですよね。

アツシ:うん、凄いよ。旧ロティカが10年かけてやってきたことを、カタルとナボちゃんはわずか2、3年くらいでひっくり返したんだから。

──それこそ〈TV-FREAK RECORDS〉在籍時、歌舞伎町に移ったLOFTでニューロティカの動員がぐんぐん伸びていくのを目の当たりにしました。2000年代に入ってすぐのニューロティカはとにかく勢いが凄かったし、その直後に『A.I カンパニー』という豪華面子によるトリビュート・アルバムが作られたのも納得の流れでしたね。

アツシ:POTSHOTが「青春 III」で参加してくれてね。あのトリビュートはラッパ我リヤの事務所の女性社長に呼ばれて、「バンドとしてどんなことをやりたいですか?」と訊かれたから、ちょうどその頃、トリビュートが流行っていたので「トリビュートがやりたいです」と答えてさ。それでその社長がビクターの田中さんという偉い人に電話したら「いいよ」とその場ですぐにOKが出たんだよ。エッ、そんな簡単に決まっちゃうの!? とビックリしたけど(笑)。

──まさに北島さんの言う通りですね。「言うのはただ」(笑)。

RYOJI:だけどあっちゃんは“トリビュート”の意味が分かってなかったんでしょ?

アツシ:そうそう。STAR CLUBのHIKAGEさんがソロでトリビュートを出すから唄ってくれよと連絡が来たんだよ。それでJACKieに「トリビュートって何?」って訊いたら「人が死んだら出すものだよ」って言うから、HIKAGEさんに「誰かお亡くなりになったんですか?」って訊いたら「死んでねえよ」って言われちゃった(笑)。

──トリビュートといえば、POTSHOTのトリビュート・アルバム(『SiNG ALONG WiTH POTSHOT』)にニューロティカが参加したこともありましたね。

アツシ:あったね。「MEXICO」を唄ったやつだ。

RYOJI:あっちゃんには難しかったんじゃないですかね、英語の歌だから(笑)。海外のバンドのトリビュート・アルバムに参加しないかという話がニューロティカにもけっこう来ていたらしいんですけど、英語の歌だからとあっちゃんが全部断っていたみたいで(笑)。

アツシ:唯一の例外がクラッシュのトリビュート(『THE CLASH TRIBUTE』、「Janie Jones / Death Is A Star」のメドレーをカバー)。

RYOJI:カタルさんとナボさんが「クラッシュだけは絶対やりたい」ということで。

アツシ:僕が営業して取ってきた仕事だったんだけど、あれ、誰が唄うんだっけかな? と思って(笑)。ラモーンズ(「You're Gonna Kill That Girl」)は日本語にしていいって言われて助かったんだけどね(笑)。

──カバーはその人の力量とセンスが問われるので難しいし、だからこそ先日のあっちゃんとJOEさんの合同バースデー・ライブ(2022年10月20日、新宿LOFT)でRYOJIさんが披露したジュンスカのカバーは絶品だと思いましたね。

RYOJI:ああ、若手筆頭として参加したライブで披露した「すてきな夜空」ですね。あれは相当唄い込んでますから(笑)。あの日もけっこう覚悟して本番と打ち上げに臨んだんですけど、あっちゃんはすぐ帰っちゃいましたね。

アツシ:次の日が仕事だったんで…。

RYOJI:LOFTでカバー・イベントなら、これは朝までコースかなと覚悟していたんですよ。相変わらず僕が一番年下だし(笑)。だけどあの日はニューロティカのRYOくんが僕よりちょっと下だと分かって安心していたら、RYOくんに「終電なので帰ります」と言われちゃって(笑)。あっちゃんも乾杯だけしてすぐ帰ったし、終電のタイミングで半分くらいが帰っちゃって、打ち上げ自体がわりとあっさり終わって。あの面子だったら昔は間違いなく朝までコースだったのに。

アツシ:あの日、LADIES ROOMのGEORGEはそうなると思ってLOFTの前のホテルを取ってたらしいけどね(笑)。

アツシとの出会いで芽生えた、上の世代の音楽を若い世代に伝える使命感

──今回の『ビッグ・ウェンズデー』で、両者が最後にセッションをやってみるとかの予定はあるんですか。

アツシ:そういうのは今までやったことなかったよね?

RYOJI:ないことはないですよ。POTSHOTのステージにあっちゃんが飛び入りして「DRINKIN' BOYS」を唄ったり、客として観ていた僕が急に呼ばれてみんなで「チョイスで会おうぜ」を唄ったりしたことはありました。

アツシ:今回も何かあるかもしれないということで、夢の共演に期待してください。

RYOJI:お客さんはだいぶ見飽きてると思いますけど(笑)。

──打ち上げはどうなりそうですか。

RYOJI:どうだろう。1月11日は平日ですからね。

アツシ:じゃあ、LOFTの前のホテルを取りますか!(笑)。

RYOJI:(笑)歌舞伎町LOFTの柿落としでニューロティカとツーマンしたときのセットリストを再現できたら面白いなと思ったんですけど、探しても見つからなかったんですよ。

アツシ:僕は多分、残してあるな。出演記録ノートの端っこにセットリストがあるはず。

RYOJI:古い手帳を見つけられれば分かるはずと思っていて、手帳は見つかったんだけどセットリストが書いてなかったんですよ。書いてあったのはスケジュールだけで。

──調べたところ、POTSHOTの新宿LOFTでの初ライブは1997年6月29日に行なわれた『SKA IS IN THE HOUSE』だったんですが、POTSHOTは小滝橋通り沿いにあったLOFTよりも歌舞伎町LOFTのイメージが強いですね。

RYOJI:西新宿LOFTはぎりぎり間に合ったんですよね。それからすぐにLOFTが歌舞伎町へ移ることになって、広くなったなあ…と感じました。今度はこの新しいLOFTで、あっちゃんのように最多出演を目指してやろうくらいの気持ちでしたね。

アツシ:僕は移転前のLOFTでPOTSHOTを観た記憶はないな。LOFTが移転する前後はバイトもしてたし、前ほどちょくちょくLOFTへ飲みに行けなかった。ちょうどその頃だよね、POTSHOTと出会ったのは。最初の話に戻っちゃうけど、あそこの世界へ飛び込めば絶対に楽しくなれるぞって確信があったね。それまではずっとワンマンばかりだったし、それが普通だと思ってたけど、初めてPOTSHOTを観たON AIR WESTに出てるようなバンドたちと一緒にライブをやりたいと思うようになった。

──まさにあっちゃんにとって転機でしたよね。RYOJIさんにもそんな転機がこれまでのバンドマン人生の中でありましたか。

RYOJI:やっぱりあっちゃんとの出会いは大きかったと思います。自分たちの前の世代の人たちとは違うことをやるぞとPOTSHOTを始めたものの、ニューロティカを筆頭に「こんなに格好いいバンドがいるんだよ」と若い子たちに伝えたい気持ちが強くなっていきましたから。ニューロティカ以降、G.D.FLICKERSやSOUL FLOWER UNIONだったうつみようこさんやLONESOME DOVE WOODROWSの作品などを〈TV-FREAK〉で出すことになったりもして、新しいことをやっていたつもりが音楽の地層は繋がっていたというか。上の世代にも良い音楽はたくさんあることを若い世代に伝えたいという勝手な使命感みたいなものがいつしか芽生えましたね。それは間違いなくあっちゃんと出会ってからなんです。

──仲野茂さんがLOFTで主催していた『THE COVER』にRYOJIさんが呼ばれるようになったのも、あっちゃんとの交流があったからこそですよね。

RYOJI:でしょうね。いつまで若手筆頭なんだろう? とは思いますけど(笑)。僕が一番年下なのに、サンハウスの柴山俊之さんやARBのKEITHさんを差し置いて、なぜか乾杯の音頭を取らされたこともありました(笑)。

アツシ:亜無亜危異の茂さんの命令だから、仕方ないよね(笑)。ニューロティカの武道館の打ち上げで、茂さんに「RYOJI、お前が武道館でやるときは俺が『君が代』を唄ってやるからよ!」と言われてたよね(笑)。

RYOJI:そうそう。「はい、任せてください!」なんて返事しましたけど(笑)。一生、武道館でなんてやれないよなとか思いつつ(笑)。

──話は尽きませんね。『ビッグ・ウェンズデー』初回のニューロティカは、〈TV-FREAK〉時代の楽曲中心のセットリストになりそうですか。

アツシ:そのつもりです。最近はそのへんの曲を集中してやってこなかったので僕も楽しみです。じゃあこれを機に、ニューロティカの〈TV-FREAK〉時代のベスト盤を出しましょうか?

RYOJI:もう2枚も出してますから(笑)。ベスト盤に入るような新しいヒット曲をカタルさんにまた作ってもらわないと。やっぱり速くてメロディアスな曲を(笑)。

アツシ:はい、新曲はカタルに任せて(笑)。1月11日は新宿LOFTでサイコーのライブをやってから楽しい飲み会をやるんで全員集合で(笑)。この日まだまだ客席がスカスカなんで焦って、急にこの対談をやってもらうことになったので、そこんとこヨロシク哀愁(笑)。

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