再びJリーガーに返り咲いたFC大阪・禹相皓が歩んだ果てしない旅路とは

2022年11月20日JFL最終節、1万2183人の観衆が集まるスタジアムでFC大阪は、MIOびわこ滋賀と1-1で引き分けて最終順位2位でJリーグへの入会を決めた。サポーターとイレブンが歓喜に沸く中、中盤の底で攻守に渡ってチームを支え続けたMF禹相皓(ウ・サンホ)はピッチ上で来季を見据えていた。数々の苦難を乗り越えてJリーグに返り咲いた男の軌跡を追った。

禹相皓は札幌市出身で、中学まで北の大地でプレーした。当時は攻撃的なポジションを任され、ドリブルで違いを生み出す名の知れたプレイヤーだった。

―まずはサッカーを始めたきっかけを教えてください。

5歳のときに、兄が通うサッカースクールについていってからですね。サッカー以外にもピアノ、空手、バスケと色んな習い事をしてきたんですけど、一番しっくりきたのがサッカーでしたね。毎日が楽しくて仕方がなかったです(笑)。

―小学校ではベアフット北海道でプレーしてから、北海道の名門SSS(スリーエス)に入団しました。そこではどんなプレイヤーでしたか。

小学5年生の終わりごろにSSSに入団して、中学でも同じチームでプレーしました。当時はアタッカーで、ドリブルからスルーパスを出したり、左サイドから右へカットインするドリブルを仕掛けていました。なんで今のプレースタイルに行き着いたか分かりません(苦笑)。周りと比べてフィジカルも大きかったので無双していました(笑)。

―無双(笑)。成績も凄かった?

シーズン2桁(ゴール)は余裕で超えていましたね。全国大会にも5、6回は出ていましたけど、そこでも得点を決めていました。中学2年生のときは、高円宮杯(全日本ユースU-15サッカー選手権大会)で奇跡的に3位に入りました(大会3得点でセレッソ大阪U-15、サンフレッチェ広島ジュニアユースを撃破)。すべてが思い通りになるくらい上手くいっていた感じですけど、その大会はガンバ大阪(ジュニアユース)が優勝し、宇佐美貴史が活躍していました。上には上がいるなーって思いました。

―それだけ活躍したら中学卒業後の進路は引く手数多でしょうね。

そうですね。コンサドーレ札幌(U-18)からはずっと声をかけてもらえました。他は流通経済大柏、青森山田、ベガルタ仙台ユースと…。行こうと思えばどこへでも行けましたね。

―その数あるオファーから横浜F・マリノスユースを選びました。

多くの選手にとってマリノスは憧れだったと思います。(入団が)決まったときは本当にうれしかったですね。

―札幌から横浜へ渡りました。マリノスユースの印象を教えてください。

僕が入団したときはマリノスタウンができて1年目でした。練習場はみなとみらいにあったので、田舎者の僕にとって圧巻の光景でした。環境が素晴らしくて、指導者にも恵まれていて、何もかも充実していましたね。トレーニングが夕方くらいから始まって、終わるのは午後8、9時ごろ。それからライトが消えるまで自主練をして、クラブハウスでご飯を食べて寮に帰れば時計は午後11時を回っていました。サッカーに向き合える最高の環境でしたよ。

―選手のレベルはどうでしたか?

滅茶苦茶レベルが高かったですよ。3年生には齋藤学くん、端戸仁くんがいて、同学年には小野裕二がいて刺激的な日々を過ごせました。ただ必死に食らいつこうとした一方で、ケガが多くて不完全燃焼なところもありましたね。

高校生で「ユースをクビに」異例の育成年代

充実した時間を過ごした禹だったが、1年生のときに通っていた高校内での喧嘩騒動に巻き込まれてマリノスユース退団の憂き目に遭った。高校1年の11月から春先まで無所属期間が続いた。

―高校生で無所属はかなり大変だったと思いますが、振り返っていかがでしたか。

どこにも在籍していない期間が半年ぐらいかな。その間は札幌でトレーニングしたり、土木作業の仕事をしたりと(苦笑)。サッカーを辞めることも考えました。

―そんな中で2年生に進級する前に、柏レイソルユースへ入団しました。

(北海道出身の)清川浩行さんとのつながりがあって柏ユースに入団することができました。マリノスユースを退団してどん底を経験したので、感謝しかないです。(高校3年生の夏)クラブユース選手権決勝の試合前にあった整列で、サッカーを辞めることも考えましたから感極まって目がウルウルしましたね。

―クラブユース間の移籍は中々レアなケースですけど、レイソルとマリノスの違いはありましたか。

マリノスは個人技で打開するスキルのレベルが高かったです。レイソルは連係面の攻守を大事にするチームでしたね。「止める、蹴る」の基礎技術が高かったし、「止める、蹴る」の練習も多かったです。今思うと、レイソルで基礎技術の土台を作れたと思います。

―レイソルユースの中でも飛びぬけて優れた選手はいましたか。

茨田(陽生)くんが「止める、蹴る」のお手本でしたね。レイソルの育成が生んだトップレベルの選手だなと思いましたよ。

―禹選手はトップチームに帯同するほど期待されていたと聞いています。

そうですね。半年以上トップチームに帯同していました。練習試合も毎週行っていましたし、(進路が決まる)ギリギリまでラインには立っていたと思います。でも夏過ぎにはチームメイトのみんなの進路が決まっていくじゃないですか。僕は秋ごろまで時間がかかったので、結構内心ドキドキしていました。プロに行けるという根拠のない自信もあって、ちょっと焦っていました。

―結果はトップチーム昇格が見送られましたね…。

ショックでしたよ。これからどうしようって…。今では前向きにメンタルのコントロールができますけど、当時は難しかった。受け入れるのに時間がかかりました。

―卒業後の進路は明海大を選ばれました。

当時は(競技)レベルの高い大学に行くために、大学を調べる力がなかったんですよね。時期もギリギリでしたからね…。(選んだ理由は)今まで母親一人に育ててもらっていたので、条件の良かった特待生として明海大に進みました。

―リーグは千葉県1部。関東リーグ2部昇格を目指して奮闘したと。

当時はチームを上げればいいと考えてプレーしていました。でも毎年参入戦に行きましたけど、最後まで上がれませんでしたね…。

―大学では苦しい時期が続いたのですか。

大学生なので色んな誘惑もあって、周りとの温度差を感じていましたね。プロチームの練習参加もジェフ(ユナイテッド市原・千葉)には何回か人数合わせで参加しましたけど、他はなかったですね。4年生になったときにはどこにも行けないだろうなと思ったので、海外にチャレンジしようと思いました。

明海大でプレーした禹相皓(本人提供)

海外挑戦を決めたものの、欧州の市場が開く時期は卒業後の夏。空白期間中の禹はFC KOREAの門を叩いた。クラブは2015年当時、日本で生活する韓国人、北朝鮮人を中心にチーム作りをする方針を取っていた。日本生まれで韓国の国籍を持つ禹は入団条件を満たしていたが、海外クラブの挑戦を目指していたため練習参加を願い出ていた。

―卒業後はFC KOREAに入団しました。経緯を教えてください。

海外のチャレンジは夏になるので、それまでFC KOREAに練習参加できないかと聞いたら、(先方から)試合に出たほうがいいと3、4カ月の間チームに登録させてもらいました。何試合か出ることもできましたし、FC KOREAでトレーニングができたから欧州に行けました。今でも感謝しています。

―チームメイトの方々から刺激を受けましたか。

みなさん仕事をしながらサッカーをしていましたけど、サッカーに対する姿勢や思いが強くて僕のモチベーションが上がりました。本当に心地いい環境で、本来の自分を取り戻すことができました。在日韓国人のコミュニティに入って、(練習など)手を抜かないという部分を学べて人間的に成長できたと思います。

欧州には「違う競技」のサッカーがあった

FC KOREAで研さんを積んだ禹は、夏に欧州へと飛び立った。行先は東欧のモンテネグロ。日本とは違う激しい肉弾戦を強いられる過酷なリーグで適応していき、新天地で活躍した。そして禹は自身のルーツである韓国でもプレーした。

―モンテネグロ1部のOFKペトロヴァツに入団した経緯を教えてください。

当時レイソルユースの先輩が東ヨーロッパでプレーしていたので、その人伝えで欧州クラブへの移籍を斡旋している会社に頼んで行きました。

―リーグやクラブのレベル、日本との違いはありましたか。

違う競技をやっている感じがしましたね。技術は日本のほうが上ですけど、評価されるポイントが全く違います。何より兎に角相手は大きいし、重戦車のように突っ込んできますからね(笑)。高い身体能力が要求されますから、そこで生き残れるかで悩まされました。プレーしていてハングリーさや図太さといった経験を得られたことは、何よりもでかかったですね。

―具体的に言うと球際やデュエルの面でしょうか。

そうですね。1対1の重要性やデュエルをモンテネグロで学ぶことができました。例えば自分がミスして失点したら、もう次から使われません。だから自分がミスからボールを奪われたり、ドリブルで抜かれての失点はできません。その重みは、ケタ違いにありました。試合では冷や汗をかくぐらいでしたけど、そういう部分は今でも大事にしています。

―欧州だと試合に負けると犯罪者扱いされるとよく聞きますけど、実際はどうでしたか。

負けたときは当然、後ろ指を指されますよ(苦笑)。例えば試合に勝ったあとにレストランへ行けば、豪勢な料理が出てきます。でも負けたときはパンの耳しか出てこなかったんですよ(笑)。すごく極端ですよね。パンのふわふわしたところは誰が食べたんだって(笑)。

―パンの耳は面白すぎますね(笑)。モンテネグロで1シーズン過ごしたあとに、当時韓国2部の大邱FCに移籍しました。

僕の中でUEFA CLやELに出ると決めて欧州へ行きましたが、予備予選に出られる順位ではありませんでした。ここに長いこといても仕方がないと思い、区切りをつけて東南アジアなどでチームを探していたら大邱FCからオファーが来ました。

―自身のルーツがある国のクラブからオファーは運命的ですね。

そう思います。東南アジアも選択肢にあった中で、自分のルーツがある韓国からオファーが来たときは運命的でした。日本で生まれて育ったけど、韓国はどういう国で、どういう人がいるのか興味がありました。

―韓国では1年目2部でプレーして1部昇格に貢献し、2年目は1部で17試合出場。Kリーグは激しいイメージがあります。

1対1のデュエルもそうですし、自分から失点したら使ってもらえないのでシビアなリーグでした。それでも自分がヨーロッパで得たものを生かせることができました。特にKリーグクラシック(現Kリーグ1、1部相当)は楽しかったですし、やりがいもありました。チャレンジャーとして挑めましたね。チームはサッカーに集中できる環境で、日によっては3部練習がありました。サッカー漬けの日々を過ごせました。

大邱FCでプレーした禹相皓(本人提供)

―韓国での生活やカルチャーの部分で日本と違いはありましたか。

韓国人は集団行動を好んでいて、みんなで成し遂げようとします。日本人はマイスペースを大事にする方が多いですけど、韓国では何をするにしてもみんなで行動していましたね。

―韓国で一番印象に残っているエピソードはありますか。

そうですね。韓国に来てから2年目に500万円の詐欺被害に遭ったことですかね(苦笑)。

―えっ、えええ!!!?マジですか(ドン引き)。

当時練習生で来ていた子がいて、仲よくしようとコミュニケーションを取っていたんですよ。ある日大邱からソウルへ移動した先のホテルで、練習生が「コンビニへ行ってくるわ」と外出したんですよね。それから僕がATMに行ったら引き出せるお金がなくて(苦笑)。

―それは死活問題ですね…。

銀行に問い合わせたら練習生の口座に送金されていました。その後、練習生の親御さんのところへ行って全額回収しました(笑)。

―行動力が凄すぎる。

僕がお金を引き出すときに、練習生が後ろから暗証番号を覗いていたみたいなんですよ。回収するのに大変でしたよ(笑)。

「逆輸入」で臨んだJリーグの喜び

韓国で2シーズン過ごした禹は、新天地を生まれ育った日本にした。“逆輸入”という形でJリーガーとなり、FC岐阜、愛媛FC、栃木SCでプレーした。帰国の理由は抱いていた夢が大きかった。

―大邱FCからFC岐阜へ移籍しました。なぜJリーグを選んだのでしょうか。

子供のころからJリーガーを夢見ていたので、Jリーグでやってみたいという気持ちからですね。複数のクラブが僕に興味を持っていたようですが、最初に岐阜からオファーを頂いたのですぐに決めました。

―当時の岐阜は大木武監督が素早く正確に繋げるパスサッカーを駆使して、J2で注目を浴びていましたね。

大木さんのチームは面白いサッカーをしていましたよ。トレーニングも成長できると実感できました。でも左足のハムストリングを肉離れしてしまって、キャンプもほとんど参加できずにリーグ戦開幕直前の練習試合でやっと復帰できました。だからチームに中々入り込めませんでした。それでもFC岐阜で培った足を止めない重要性や攻守の切り替えの早さは、今でも僕の指針になっています。

―岐阜では古橋亨梧選手や田中パウロ淳一選手ともプレーしました。

そうですね。古橋くんはポゼッションの練習で一緒にやったとき、速くて上手くて衝撃を受けました。今の活躍を思うと、間違いないと思いましたよ。パウロはプライベートでも、ピッチ上でも違いを作れる異質な存在でしたね(笑い)。

―Jリーガーとしてデビューした際の思い出などはありますか。

観客の前でプレーするのは初めてではなかったので、緊張せずにプレーできました。ただ夢に見たJリーガーになれた喜びはありました。

―岐阜では1試合出場のみと苦しみましたが、シーズン途中に愛媛FCに期限付き移籍をしました。その後同チームに完全移籍を果たして2シーズンプレーしました。

愛媛は川井健太さんが監督で、面白いサッカーをしていました。チームの雰囲気もクラブ一丸で和気あいあいとしていて居心地が良かったし、試合も出させてもらえました。プロサッカー選手は試合に出ることが大事なので、今でも感謝しています。ただ愛媛の2年間は充実していたけど、もっとできたかなと思っています。

―愛媛退団後は栃木へ完全移籍。そこではどうでしたか。

栃木はインテンシティと走力を使ったストーミング(相手がボールを保持している際、複数人で激しいプレスを仕掛けて飲み込むようにボールを高い位置で奪ってカウンターへつなげる戦術)を掲げていました。前線からプレスをかけて、カウンターを仕掛けていました。僕はもっとできるかなと思っていましたけど、まだまだ走れていない部分もありました。チームコンセプトや求められるプレーができていませんでした。

―苦しい中でも成長の手ごたえはありましたか。

オリンピアンの杉本龍勇さん(バルセロナ五輪に出場)から走り方を指導していただきました。走力の部分はそこで改善されました。

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