知れば知るほど、尊敬と親しみ増す清張ワールド/「北九州市立 松本清張記念館」館長・古賀厚志さん

西日本新聞社北九州本社が制作するラジオ番組「ファンファン北九州」。地元新聞社ならではのディープな情報&北九州の魅力を紹介しています。ラジオを聞き逃した人のために、放送された番組の内容を『北九州ノコト』で振り返ります。

松本清張と北九州との繋がり

甲木:おはようございます。西日本新聞社 ナビゲーターの甲木正子です。

井上:同じく、西日本新聞社の井上圭司です。

甲木:井上さん、松本清張の作品を読まれたことはありますか。

井上:そうですね。最近、“時間の習俗”という本を読みました。面白かったです。

甲木:今回はですね、その清張さんに絡むお話です。では、お呼びしましょう。「北九州市立松本清張記念館」館長 古賀厚志さんです。よろしくお願いします。

井上:よろしくお願いします。

古賀:よろしくお願いします。

甲木:古賀さん、松本清張と言えば今年(2022年)は没後30年で随分テレビとかで見るのですが。

古賀:そうですね。かつて放送されたドラマの再放送とか、清張さん特集とかで番組が作られていたり、新聞などでも特集の記事が組まれたりしていますね。

甲木:松本清張は北九州市出身ということもあって、松本清張記念館も北九州市にあるわけですが、北九州との繋がりをお話して頂いてもよろしいでしょうか。

古賀:はい。清張さんは82年間の生涯で、40代半ばぐらいまでが小倉時代と言われる時期ですが、実際、小倉では作家活動はほとんどしていないんです。この小倉時代のいろんな苦労も含めて、その後の作家としての作品に生かされているというような印象を持っていただきたいと思います。旧小倉市の黒原に造兵廠の工員住宅があって、清張さんはそこで家族と暮らし始めます。その頃は、現小倉北区砂津の朝日新聞西部本社の広告デザインの部署で仕事をしていました。彼には才能があったようで、だんだん図案家として活躍をしていくようになりました。そして1950年、41歳の時に彼の運命の扉が大きく開きます。

作家としての活動

古賀:黒原で生活していた時は、彼は両親も含めて8人の家族を経済的に支えていました。それで家計の足しにしようということで、たまたま募集されていた週刊朝日の100万人の小説という懸賞小説に“西郷札”と言う作品を書いて応募しました。これが見事3等賞で入選し、次の年、直木賞の候補作になりました。それから、43歳の時に“三田文学”という雑誌に発表した“或る「小倉日記」伝”が1953年に芥川賞を受賞することになります。

甲木:作家としては、遅咲きですよね。

古賀:そうですね。彼は、デザインや書を独学で勉強していました。カメラにも詳しかったですし、英語もしゃべれるぐらいまでのレベルで勉強しています。自分でも言われていますが努力の天才と言うぐらい素晴らしい勉強ぶりで、幅広い知識が蓄積されていてそれが作品に生かされていると思います。

甲木:カメラの知識が生かされた作品もありますよね。

古賀:そうですね。結構、彼の場合は体験を作品に生かすことが多かったんです。例えば“点と線”という小説の中で香椎海岸が出てきますが、そこは彼が福岡市の“嶋井オフセット印刷所”という所で修業した時期に行っていた場所です。後に彼は「その頃の香椎は、静かな浜辺で万葉集に歌われた面影が残っていた」と書き残しています。やはり自分の体験が生かされているということですね。

オカリナで松本清張の作品をPR

甲木:私にとって実は、古賀館長は高校の時の部活の先輩でもあり昔からの知り合いなのですが、どちらかというと音楽とか絵を描くのがお上手で、その方が文学漬けになり、少し意外な感じがしますけども、最近はオカリナを吹いていらっしゃるんですよね。

古賀:5年ぐらい前、若松区長在職中、いろんな所で講演をさせていただいておりましたが、なかなか自分のことを覚えてもらうことができませんでした。その頃たまたま敬老会があった時、「高齢者になっても、この若松(故郷)を子供たちに伝えていきましょうね」とオカリナをポケットから出して、“故郷”の曲を吹いたところ、皆さんが歌ってくださったんです。他の講演でも同じようなことをしたところ歌ってくださって、そこからオカリナにはまりました。

甲木:松本清張記念館でもオカリナを活用されているんですよね。

古賀:オカリナを活用して、清張さんの作品に結びつく童謡唱歌をピックアップしてプログラム化していくもので、現在20曲くらい作っています。

甲木:どのようなプログラムなんですか?

古賀:清張さんの“点と線”という小説がありますが、その小説は東京駅での4分間の空白がトリックになっているんですけども、当時、清張さんが芥川賞を受賞した後、家族を小倉に残し上京していました。その時に勤務していた所が朝日新聞の東京本社で、通勤途中に東京駅を通って通勤していました。東京駅には、今は無くなりましたが、“あさかぜ”という特急列車が止まっていまして、「あの列車に乗ったら次の日の朝、家族に会えるんだ」という望郷の念を感じたらしく、それが“点を線”の創作の原点だと言われていました。このような話しを紹介した後に“故郷”の曲を演奏すると、“点と線”を読んでみようかと思って頂けるのではないか、というような感じですね。

後世に伝えたいこと

甲木:なるほど、望郷の念と“故郷”ですね。聴覚からも清張さんの世界の情景を思い浮かべますね。職員時代は文学に携わっていなかったとおっしゃっていましたが、その時代の経験が今に生かされていますね。

古賀:ありがとうございます。清張さんと接することで、清張さんの生き様・考え方・人となりというのが、私の今後の人生にとって、大きな指針や励ましになります。この年齢でこういう勉強をさせて頂いたことがありがたいし、子どもたちにも伝えていかなくてはいけないと思います。先ほども申し上げた清張さんの生き様とか考え方とか、独学でどんどん学んでそれを生かす、このあたりはどの年代の人にとっても大事だと思います。そして清張さんのような方がいたということは北九州の誇りだと思います。

甲木:ありがとうございます。井上さん、お話を聞いていかがでしたか?

井上:そうですね。古賀館長のお話を聞いて松本清張の世界に入りやすくなりました。

甲木:本当にそうですね。今回は北九州市立松本清張記念館 館長の古賀厚志さんにお話を伺いました。古賀さんありがとうございました。

井上:ありがとうございました。

古賀:ありがとうございました。

〇ゲスト:古賀厚志さん(北九州市立松本清張記念館 館長)

〇出演:甲木正子(西日本新聞社北九州本社)、井上圭司(同)

(西日本新聞北九州本社)

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