知的障害者教え20年 『諫早ペンギンクラブ』 “泳ぐ喜び”ゆっくり楽しく

諫早ペンギンクラブで教える(奥右から)池田代表と博子専任コーチ=諫早市森山町、森山スポーツ交流館

 飛べない鳥ペンギン。歩くスピードはヨチヨチだが、水の中では自由自在に泳ぎ回る。そんなペンギンの名にあやかり、活動を続けて約20年になる知的障害者の水泳クラブが長崎県諫早市にある。名前を「諫早ペンギンクラブ」という。
 森山スポーツ交流館(森山町)の温水プール。「いいね? 行くときはこっち、帰りはこっち」。専任コーチの池田博子(74)がコースロープで仕切られたレーンの真ん中に立ち、25メートル先の折り返し点に向かって右側の水面を一方の手で、左側の水面をもう片方の手で大きくたたいた。
 ジェスチャーを交えるのには理由がある。クラブが練習に使えるのは1レーンだけ。往路と復路を分けなければ、生徒同士がぶつかってしまう。だが「右側を泳いで」と指示しても、言葉ではその意味が分からない生徒もいる。障害の程度が異なる生徒それぞれの理解力や特性に応じて言葉を選び、根気強く教えていくことがここでは大切だ。
 「(ウオーミング)アップ、いこう。ゆっくりでいいです」。博子の掛け声で生徒が縦一列になってクロール。それを夫の篤(74)やボランティアコーチがサポートする。後半は、それぞれの泳力に応じた練習メニューだ。柴山史(ふみ)(19)がビート板を使い、背泳ぎを始めた。25メートルを折り返し、懸命に脚を動かす。「あと5メートル。行けるよ」。声援の中、ゴール。みんなから拍手され、うれしそうな表情を見せた。
 博子がクラブを立ち上げたのは、自身がサポーターとして関わった障害者の水泳クラブが閉鎖されることになったのがきっかけ。関係者から引き継ぎを懇願された。体力づくりのため40代半ばから水泳を趣味にしていたものの、教えることに関しては全くの素人。悩んだが、「知的障害の子たちが水泳を楽しめる居場所をなくしたくなかった」。
 2002年10月、生徒4人で発足。10年には篤が代表に就き、夫婦2人で「障がい者スポーツ指導員」の資格も取得しながらボランティアでの運営が本格始動した。
 練習は水曜夜と土曜昼の各約1時間。ダウン症や自閉症などの19歳から41歳までの男女19人が市内外から通う。毎年秋の全国障害者スポーツ大会には、これまで5人が県勢として出場。金メダルを獲得した生徒もいる。
 史は7歳で入会した当時、水を怖がっていた。池田夫妻はゲームでプールに慣らすことから始めた。そして、泳ぐ感覚を肌で知ってもらうため、篤が史を背中にのせてクロールをしてみせた。史がビート板を持ってばた足ができるようになるまで、そんなことを何カ月も続けた。
 クロールを覚え、背泳ぎを練習中の史は、今もその時のことを覚えている。「優しく教えてもらって楽しい。背泳ぎは水が(口や鼻に)入って来て怖いけど、泳げるようになりたい」。母恵美(60)のそばで、少し照れたようにはにかんだ。
 「楽しく元気に泳ごう」を理念に活動を続ける諫早ペンギンクラブ。関係者の共生社会への思いをつむぐ。

◎共生社会へ一歩ずつ わが子の成長に喜び

 諫早市で活動を続ける知的障害者の水泳クラブ「諫早ペンギンクラブ」。代表の池田篤(74)、妻で専任コーチの博子(74)の考えで、毎年の県障害者スポーツ大会、健常者が出場する「市マスターズ水泳の集い」への全員参加が恒例だ。練習やこうした経験を通じ、生徒の親はわが子の変化を感じ取っている。
 9歳から通う光石快征(22)の母則子(61)もその1人。「競争意識がゼロ」だった息子がある時、練習でほかの生徒を追い抜き、それをきっかけにぐんぐんとスピードが出るようになった。水泳での自信は日常生活にも変化をもたらす。特別支援学校高等部では生徒会副会長に立候補、大役を務めた。「ペンギンクラブで養われたのは、(泳力だけでなく)たくましさや向上心」と則子は言う。

水泳の練習をする生徒ら=諫早市森山町、森山スポーツ交流館

 一方で、共生社会への課題も挙がる。内川賀仁(よしひと)(32)の父十代一(とよかず)(63)には忘れられない出来事がある。約4年前のこと。長崎市内の商業施設の長椅子で休憩していた際、賀仁が隣に座った男性のスマホ画面をのぞき込んだ。ゲームに興味を持ったらしい。男性の顔が怒気にゆがんだ。「何しよっとか。くらすっぞ」。賀仁に障害があり、悪気はないと分かっても男性は怒声を浴びせ続けた。
 十代一は思う。昔と比べると障害者への理解は進んだが、共生社会はまだ遠いと。「『恥ずかしい』からと、障害がある子を外に連れ出すことに抵抗感がある親は多いが、表に出てほしい。障害者のことを知ることで社会は少しずつでも変わっていく。社会を変えるためには親も変わらなければ」
 松山真理(40)の母満恵(69)が感じるのは就労の問題だ。「障害者の中でも知的は難しい。自立への受け皿づくりがもっと進んでほしい」と願う。
 昨年9月、池田夫妻や関係者にとって画期的なことがあった。第77回国民体育大会と第22回全国障害者スポーツ大会の本県選手団結団壮行式が長崎市で開かれた。これまでは別々だったが、スポーツを通じた共生社会に向けて初めて合同で開き、ユニホームのデザインも統一された。「大きな一歩」。篤はそう評価し、こう続けた。「障害者スポーツはまだ指導者が不足している。運動環境が整備され、障害者がスポーツを楽しめる居場所が広がっていけばいい」
 快征が幼いころ、則子は心に余裕が持てず、精神的に追い詰められた時期があった。保育園でほかの健常児を見て「いいな、あの子たちは」とうらやんだこともある。だが、息子を他人と比べても意味がないことに気付いた。
 障害はあっても心優しいわが子の存在に癒やされる。「時間はかかっても、その子なりに成長していく。心配は多くても、その分、成長を感じる喜びは必ずあるから焦らず見守って」-。もし、かつての自分のように思い悩んでいる親がいるとすれば、そんな言葉をかけてあげたい。そして、息子にはこう言いたい。
 「生まれてきてくれてありがとう。居てくれてありがとう」と。 =文中敬称略=


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