日本郷土玩具館 ~ 伝統的郷土玩具と工芸品が共生する空間

倉敷川に沿うように堂々とした軒がつづく町家があります。

ここは日本郷土玩具館。全国から約10,000点におよぶ玩具が集められ、展示されている場所です。

米蔵を改装した建物に一歩入ると、中で郷土色豊かな玩具があふれんばかりに迎えてくれました

サイドテラス内にある+1GALLERY(プラスワンギャラリー)では、現代の工芸品が見られます

時代は違えど、人がつくりだした郷土玩具と工芸品がとなり合う空間、日本郷土玩具館に行ってきました。

日本全国から集められた郷土玩具

昭和42年に開館した日本郷土玩具館。

展示されている郷土玩具は、現館長・大賀紀美子(おおが きみこ)さんと義父である初代館長・大賀政章(おおが まさのり)さんによって全国各地の収集家や玩具作家から集められたものです。

二棟に渡って展示される郷土玩具。

一つひとつがまったく違う玩具でありながら、醸し出す雰囲気はどれも優しく、懐かしさにあふれていました。

手前の蔵 ~ 地方色あふれる張り子、人形の館

郷土玩具とは、日本各地で古くからつくられてきた玩具のことをいい、素材には地域の産物、自然のものが使われます。

語り継がれた伝承が姿を変え、縁起物や厄除けとして郷土玩具になるものもあれば、身近な動物をモデルにしたもの、信仰と結びついたものもあり、いずれも人びとの生活と深くかかわりがあるものでした。

日本郷土玩具館に二棟あるうちの手前の蔵には、張り子を中心に、全国各地から集められたお面や人形が地方別に展示されています。

北海道から沖縄まで分かれていました。

それぞれの由来に違いがあるにもかかわらず、使われている色や表情にはどこか共通するものを感じます

筆者は生まれも育ちも中国地方です。

中国・四国地方の展示物の前に立つと、吉備津彦命(きびつひこのみこと)や桃太郎伝説のお供で知られる猿を想起するお面に目が行きました。

見聞きして育ったものには、自然と思い出される由来やストーリーがあります。

全体の共通点は感じつつ、由来を思い起こせることが、郷土玩具が生活に根付いていることの証(あかし)なのかもしれません。

奥の蔵 ~ だるまや雛人形、木の玩具など

中庭を抜けた奥の蔵。

一歩踏み込むと、先の蔵以上にたくさんの郷土玩具が迎えてくれました。

最初の空間を入った左側には収集家・吉永義光(よしなが よしみつ)さんより寄贈された郷土玩具が一面に展示されるスペースがあります。

収集家・吉永義光さんの収集品。館長の友人の父という縁もあり館へ迎えることになったそう

圧倒的な点数に目を見張ります。

地方別に見る郷土玩具には、由来やストーリーを感じた筆者ですが、ここで感じたのは郷土玩具の種類の豊富さでした。

手の平よりも小さい指先ほどのサイズのものもあれば、両手で扱うようなサイズのものもあります。

折々に飾って楽しむものもあれば、ときには手に取って手ざわりを楽しんだり、話しかけて微笑んだりするものもあったかもしれません。

後ろを振り返ると、さらに奥に展示スペースが。

入口の右側には雛人形、左側には天神様の人形が展示されています。

展示されているのは壁面だけではありません。

この空間の醍醐味は、天井を仰いで展示物を楽しめること

米蔵の高い天井をいかして展示された大凧は、今まさに大空を舞っているようです。

筆者の子ども時代、小さくなるほど遠く高くあげて遊んだ凧あげを思い出しました。

凧を見上げて楽しめたことが、懐かしい経験を呼び起こしてくれたのかもしれません。

儀式や儀礼に使用されたことが由来のお面。玩具としてのお面はどれも顔立ちがやわらかく感じられる

凧の他にお面もありました。

大凧を見上げつつ、後ろを振り返ると、ずらりとお面が並んでいます。

天狗、鬼などのお面もありましたが、不思議と怖くありません。

日本郷土玩具館で見るお面たちからは、見守られているかのような安心すら感じます。

奥の蔵には、2階展示スペースもありました。

羽子板や独楽(こま)、こけしなど、木を素材にした玩具の数々が展示されています

前館長・大賀弘章さんがつくった大独楽。自身で回した1時間8分57秒が世界最長記録としてギネス登録されている

筆者が見たかった前館長作の大独楽が、この場所に展示されていました。

独楽に詳しくない筆者ですが、バランスが大事な独楽を、木で直径90センチメートルという大きさにつくる作業がどんなものだったのかと考えてしまいました。

木の玩具のなかには、独楽のように動きを楽しむものもあれば、音を楽しむものもあります。

つくる作業、つくり手に思いを馳せてみると、いずれの玩具にも木で子どもがけがをしないよう、飽きずに楽しめるよう、洗練されたデザインを感じました

現代の工芸品を身近に感じる空間

日本郷土玩具館の入り口からすぐの場所に、サイドテラスと+1GALLERYがあります

サイドテラス・+1GALLERY

サイドテラスは、もとは茶室だった建物です。

1999年一級建築士である大賀環子(おおが まりこ)さんが設計監理を担当し、今の姿に生まれ変わりました。

明るく、開放的なガラス張りの空間に、倉敷ガラスなどが並びます。

倉敷ガラス

洗練された空間でありつつ、板張りの床や味わい深い色合いの柱や梁が、訪れる人の足を自然と中に導いてくれる場所でもあるのです。

サイドテラス内にはカフェコーナーがあり、倉敷の自家焙煎コーヒーも楽しめます。

普段使いの器なども見られるため、ほっとひと息つきながらテーブルコーディネートを想像するなんていうのも素敵ですね。

サイドテラスの奥にあるのが、+1GALLERY

内倉だったというこの場所は、当時の姿を残したまま。

現代の工芸品が展示されることで、新旧が交わる場所のようにも思えます。

取材当時(令和4年10月)は、倉敷芸術科学大学卒業生によるあかりとドリンキンググラス展が開催。

ほの暗いギャラリーがやわらかな明かりで照らされ、明かりを受けたグラスが光を反射して幻想的な空間になっていました。

+1GALLERYでは、多種多様な作家による企画展が開催されており、定期的なものも新たに企画されるものもあります。

開催中の企画展や今後の予定は公式ホームページ上で確認できるため、展覧会ごとに訪れて、作品とギャラリーの両方を楽しみたくなりました。

伝統的な郷土玩具と現代的なギャラリーをあわせ持つ日本郷土玩具館について、館長・大賀紀美子さんと、館長補佐・小野暢久(おの のぶひさ)さんに話を聞きました。

伝統的な郷土玩具と新しい時代を紡ぐ

日本郷土玩具館のこれまでと魅力、今後への思いについて、館長・大賀紀美子さんと、館長補佐の・小野暢久さんにインタビューしました。

開館までの経緯 ~ 倉敷のまちづくり

日本郷土玩具館 入口

──日本郷土玩具館として開館された経緯を教えてください。

大賀(敬称略)──

私が倉敷市に移り住んだのは昭和36年(1961年)ですが、郷土玩具の世界にのめり込むきっかけをつくってくださったのが、外村吉之助(とのむら きちのすけ)先生です。

外村吉之助(とのむら きちのすけ)

倉敷民藝館の初代館長。
民藝の普及に尽力しただけでなく、「町並みを守る」意識が一般的ではなかった時代に、白壁と張り瓦、本瓦葺きの屋根の連なる風景の美しさに民藝の精神「用の美」を見出し、現在の倉敷美観地区の景観保護にも貢献した。

倉敷の町並みに大きな関心を持っていらした大原總一郎(おおはら そういちろう)さんが、戦後すぐに後の倉敷民藝館館長 外村先生を倉敷に招きました。

私の義父・大賀政章も外村先生の思想の共鳴者の一人で、私たちは先祖から伝わる米倉を何かに活かせないかと相談したんです。

すると、外村先生は「郷土玩具の展示館にしてはどうか」と提案してくださいました。

外村先生は、ご自分の収集品を見せながら、全国各地に伝わる郷土玩具のすばらしさを、まぶたに浮かぶように話してくださいました。

昭和41年春のことです。

──郷土玩具の知識などは、もともとお持ちだったんでしょうか。

大賀──

義父と私には、昭和41年当時まだ郷土玩具に対する知識はまったくありませんでした。

義父は、能と謡(うたい)とお茶が趣味。

私は郷土玩具の収集家・吉永義光さんのお嬢さんと同級生で、おうちにお邪魔したときに収集品を見せてもらうことがあったくらいの接点です。

開館までの1年間は、義父と一緒に全国の収集家のかたを訪ねて回り、その後も、外村先生から紹介していただいた玩具のつくり手さんを訪ね、収集を続けました

昭和42年の開館には、外村先生の目で集められた郷土玩具を譲り受け、質の高い展示になりました。

開館時の展示スペースは、手前の蔵ひとつだけでしたが、とても好評で全国からたくさんのかたが来てくださいました。

当時は郷土玩具は収集家が手元で楽しむのが常だったこともあってか、玩具館として展示が楽しめることもよかったのかもしれません。

手前の蔵にかかる看板は外村吉之助の書

──+1GALLERYやサイドテラスについて教えてください。

大賀──

伝統的建造物群保存地区として定められた建物を活かすなかで、ギャラリーをつくったのが最初です。

私自身が工芸に携わることもあって、倉敷ガラスの小谷真三(こだに しんぞう)さん染色の柚木沙弥郎(ゆのき さみろう)さんとご縁がありました。

倉敷ガラス、染色、さらに酒津焼を加えた企画展の開催を続け、今に至ります。

現在は、小谷栄次(こだに えいじ)さん倉敷芸術科学大学教授・磯谷晴弘(いそがい あきひろ)さんの作品を展示しています。

さらに、磯谷さんからのご縁で、倉敷芸術科学大学を卒業後、作家活動をしている作家さんたちの作品を取り上げた、あかりとドリンキンググラス展を開催することができました。

サイドテラス、+1GALLERYとしてつくりかえたのは、1999年。

もとは茶室だったところを現在のようにつくりかえました。

庭に面した明るいつくりを気に入ってくださるかたも多いです。

自由に入って楽しんでいただけたらと思います。

──日本郷土玩具館のロゴについて教えてください。桃のデザインを選ばれたのは、桃太郎を意識されてのことでしょうか。

大賀──

日本郷土玩具館のロゴの由来は、家紋です。

義父と二人で選んで、桃の家紋にしました。

実は、桃の家紋を選んだのは、桃太郎伝説を意識したわけではないんです。

今でこそ岡山県といえば桃太郎というイメージがありますが、開館当時はそこまでではありませんでした。

むしろ、子どものおもちゃ、人形ですから、金太郎のほうが多かったんです。

岡山といえば白桃、と代表されていましたから、岡山と桃が切りはなせずに残っていたのかもしれませんね。

ロゴを含めた大切な包装紙は柚木沙弥郎さんにデザインをお願いしました。開館以降50年、変更せず使い続けています。

倉敷の町並みを支えるために

──最後に、今後の抱負について教えてください。

大賀──

開館から50年以上経ち、保管しているものも含めてたくさんの郷土玩具が集まってきました。

お店が手狭になってきたこともひとつですが、見せ方に課題を感じています。

並べているだけではいけないのではないか、と。

美術品の展覧会でも同じ課題があると思っています。

また、これまで郷土玩具は代々伝統的なつくり方が受け継がれてきたものなんですが、最近では跡継ぎのかたが新しいやり方を取り入れたりされていると聞きました。

今まで、これはちょっと郷土玩具とは違うのではないか、と感じて拒否してきたようなところがありましたが、それではいけないな、と。

館長補佐も含め、若い人たちが話しているのを聞いていて思います。

館長補佐・小野暢久さん。お気に入りの郷土玩具は新潟県山口土人形の三角だるま

小野(敬称略)──

私は東京生まれ、東京育ちなんですが、母親の地元である倉敷には以前から魅力を感じていました。

美術系の大学を卒業し、学芸員の資格を取る際には大原美術館でお世話になった経緯があります。

日本郷土玩具館も含めて、これからの美術品もそうですが、新しいことに挑戦してつくっている人たちもたくさんいます

できれば、古いものを持っている人がそういう人たちを応援してくれるといいんじゃないかと思います。

古い町並みを残す取り組みにも通じることですが、仮に外側だけを残しても、倉敷マインドが残るわけではないと思っていて。

いちばん残すべきは、その精神的な部分だと思っています。

大賀──

精神的な部分を残すということは、本当にそのとおりです。

町並みに関していうと、私たちだけではなく建築に関わる人たちも倉敷マインドを残すという考えの人でないと、外は残っても、まったく違うものになってしまいかねないんです。

小野──

そういう意味で、町並み保存も課題はあると感じます。

今後については、大学からの縁もあって、作家のつながりも多少あるので、今のうちにいろいろできたらと思っています。

ただ、倉敷マインドを具体的にどうするかということになると、とても難しいことなんですが。

新しいものを取り入れていくことを考えるとき、先人の遺産は強いなぁとも感じます。

日本郷土玩具館は、新しいものを取り入れつつ、古いものもそこにある、そこをすごくいいなぁと思っています。

2017年 ほおずき土鈴50展 蔵の土鈴に小野さんと友人が新しく絵付けをして生まれかわらせたもの 伝統玩具に新しい息吹を吹き込んだ

おわりに

開館から50年超を歩んできた日本郷土玩具館。

当時新しかった取り組みやものごとが、時を経て重厚な歴史になりつつあります。

館長と館長補佐の話から、郷土玩具と新しい美術や価値観との調和が模索されていることを感じました。

二人の話からは、容易な道ではないことを感じましたが、時の流れのなかで調和していくようすをぜひ見たいとも思います。

直接ものづくりに携わらない筆者ですが、玩具や作品からつくり手の思いを受け取り、大切な人に伝えていきたいと感じた、日本郷土玩具館でした。

日本郷土玩具館では定期的に郷土玩具の展示替えがあります。

一度では味わい切れない魅力を、展示替えや企画展ごとに訪れて味わいたいと思います。

© 一般社団法人はれとこ