【読書亡羊】ポリコレが生んだ「日本兵」再考の歴史観 サラ・コブナー著、白川貴子訳『帝国の虜囚――日本軍捕虜収容所の現実』(みすず書房) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評! 今年もよろしくお願いいたします。

日本軍はナチスに非ず

「こういう本が、みすず書房から出版されるのか……」

そんな時代の変化を感じさせるのが、サラ・コブナー著、白川貴子訳『帝国の虜囚――日本軍捕虜収容所の現実』(みすず書房)だ。

歴史学だけでなくジェンダー学をも日本で学んだ、アメリカの女性研究者が戦中の日本の捕虜収容所の現実を研究した本書。となれば、「どうせまた大日本帝国や旧日本軍を悪しざまに書いているのだろう」「アメリカやイギリスなど連合国側の捕虜を非人道的に扱った日本人の卑劣さ、冷酷さを書き連ねているのではないか」と思ってしまうかもしれない。

しかし本書はそうではない。むしろ本書の狙いを、筆者はこう説明する。

本書では、日本人の性質や日本文化には、捕虜の非人道的な扱いに結びつくような固有の特性は存在していなかったことについて論じたい。日本には、何十万人もの捕虜を残酷に扱うような行動規範が元来備わっていた、という見解を前提とはせずに、日本の高官が今日の言説に示されるよりもはるかに低い程度でしか、捕虜の管理の問題を考慮していなかったことを指摘したいと思う。

つまり、捕虜の管理に問題はあったがそれは日本人特有の民族性による方針や、例えばナチス・ドイツのユダヤ人絶滅計画のように一貫した観念や指示のもとに行われたものではなく、さまざまな要因の下に「結果として扱いが粗雑になるケースが発生した」ことを解き明かしている。

変わってしまった「日本人の認識」

確かにかねて不思議に思っていた。日露戦争の時にロシア兵捕虜を丁重に扱ったことで世界に評価された日本。あるいは第一次大戦でドイツ軍捕虜を収容し「人道的で模範的な収容所」として知られた板東俘虜収容所のエピソード。

もちろん暴力沙汰や行き過ぎた厳格さから生じた個別の問題はあったが、「列強の中で国際的な地位を得たい」と願う日本が、国際法や人道主義を理解しようと務めていたことは知られている。

ところが第二次大戦になると、様相は一変。

2014年に映画が公開され、日本でも批判の声が上がったアンジェリーナ・ジョリー監督の映画『不屈の男 アンブロークン』の原作などは顕著だが、「とにかく白人捕虜を殴りつけ、満足な食事も与えず、強制労働に駆り出し、虐殺さえ行った」とされる言説が増える。『アンブロークン』の原作には、日本人が人肉食の文化を持っていたかのような、誤解と偏見に基づく記述も存在するという(さすがに映画では採用されなかったようだ)。

しかもそれが「日本人特有の残虐性・嗜虐性ゆえに行われた」と言わんばかりの内容も少なくない。当の日本人が「日本人は今も昔も人権意識が低いから」と結論付ける傾向もある。

どうしてこうも変わってしまったのか。本書はそうした疑問に、膨大な文献調査と、当事者や関係者への取材によって迫っている。

戦陣訓が与えた影響

筆者のコブナー氏がこうした研究に取り組もうと思ったきっかけは、「祖父の世代の日本軍による捕虜経験者や、その子供の世代が語る苛烈な体験」と、授業で教えられる歴史にギャップを感じたからだという。

そうして調べてみると、確かに日本軍の捕虜になった白人たちが書き残してきた体験記や伝聞こそに「アジア人蔑視」の視線があり、さらには友軍の攻撃を受けて死亡した捕虜がいた実態などは隠される傾向にあることが分かったというのだ(参照下記URL)。

もちろん、捕虜の管理の不備で生じた問題は山ほどあった。命を落とした人もいた。「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓が、敵国の捕虜に対する蔑視の感情を生んだことも指摘されている。

日本側としては「まさかこれほどの連合国軍の軍人が投降して捕虜になることを申し出るとは」という驚きもあったのだろう。どんどん増える捕虜をどう扱うかのシステムや指示系統がおぼつかないまま、事態を収拾しなければならなくなったのだ。

『帝国の虜囚』著者サラ・コブナー氏インタビュー | みすず書房

フェアなアプローチが光る

また、空襲を担当した兵士が捕獲された場合は、確かに斬首されたり、生体実験に使われた例もあったと指摘されている。

しかし筆者のコブナー氏は〈アメリカの都市を爆撃した日本兵を捉えたとすれば、ロサンゼルス、シカゴやニューヨークの市民はどのように扱っただろう〉と問うて見せる。

「同じことをしなかったと断言できるのか」と突きつける姿勢には、深い感銘を受ける。当時、アメリカ、オーストラリア、イギリスの兵士は「ドイツ兵は人間だが、日本兵は猿以下」という人種意識を持つものも少なくなかったのだ。

もちろん「意図せず、状況に追い立てられて結果的に捕虜の扱いが悪くなってしまった」からと言って「仕方がなかったのだ」と開き直れるものではないが、本書はアプローチがフェアで、頭から「日本を悪者として描こう」という意図で書かれたものではない。

だからこそ、ある種のレアケースとして生じた殺害事例や、捕虜の取り扱いについて定めたジュネーブ条約を締結していない対中国姿勢、あるいは過酷な労働に従事させられたという捕虜の体験記が響く部分もあるのだ。

最初から悪魔のような日本軍、日本兵を書かれたのでは、仮に個別の事例自体が事実でもこちらが理解を拒絶したくなってしまう。

「罰より平手打ちの方がいいだろう」

何より研究から描き出される旧日本軍の軍人たちの姿は「まぎれもなく、自分たちと地続きの日本人だなあ」と思えるのである。

例えば捕虜に対する平手打ち。連合国の捕虜からすれば、階級に限らず日本兵からくらわされる平手打ちは、著しく自尊心を傷つけるものだ。だが日本兵からすれば、「平手打ちは軍隊内でよく行われている私的制裁」であり、逃亡未遂や窃盗などの規則違反を罰則に基づいて罰せられることよりも、平手打ちで済ませるほうが本人はもちろん、その家族に対しても名誉が傷つかないだろう、と考えていたのだという。

「この程度の苦労は当たり前だ」とばかりに日本人に対して行われていること、たとえばブラック企業的な働き方などが、外国人労働者にも強いられたときに初めて社会問題になる。こうしたケースは現在もかなりあると思われるが、戦前の日本人にも全く同様の問題が存在していたことになる。

また、捕虜の中には「食事が粗末だ」という不満を持つ者もいたが、日本兵とそう変わらない食事の内容であること、朝鮮の収容所では収容所の外にいる朝鮮の人たちがより貧しい食生活をしていることを知って「文句は言えない」と述べたものもいたという。

そして第二次大戦前とは違い、朝鮮人や台湾人が捕虜収容所の監視役を担うこともあった。そのため、「捕虜をどう扱うべきか」という前提が共有されず誤った対応につながったことも本書では示唆されている。これも、フェアな歴史叙述だからこそ見えてくる実態だろう。

フェアな歴史観が描き出すもの

本書は日本軍を「正義」の立場に位置付けてはいない。だからこそフェアに、「日本軍による敵国捕虜の扱いの失敗」がなぜ生じたのかを理解できるのだ。

そしてもう一つ、本書が重要なのは、こうしたフェアな歴史の始点が「ポリコレ」的価値観から生じていることだ。「白人至上主義を批判し、ポリティカルコレクトネスを守る」という昨今の風潮には批判的な保守派も少なくない。

「形を変えた共産主義革命だ」と言わんばかりの評論もあるが、一方で本書は確実に「ポリコレの上に立った『アジア人蔑視を含む白人中心主義の歴史観』の見直し」から生まれたものである。

つまり、アジア人である日本人も「ポリコレによって救われる部分がある」存在なのだ。

ウェブ上には本書の「序章」が公開されているので、まずはこれだけでも読んでほしい。

日本は大戦中「戦争捕虜」を一貫して虐待していたのか? | 『帝国の虜囚』歴史家サラ・コブナーがその実態に迫る梶原麻衣子 | Hanadaプラス

© 株式会社飛鳥新社