
日本人の労働力不足を補い、国内の生産活動を支える外国人技能実習制度。近年、過酷な労働環境に耐えかね、職場から失踪する実習生が後を絶たない。2021年は1年間で7千人を超え、以後もさらに増えつつあるという。インドネシア出身のアフマッドさん(26)が東北地方の住宅メーカー工場から逃げた理由を聞いた。
農家に生まれ、自動車整備の専門学校で学んだアフマッドさんは、仕事を探している時、友人に誘われて日本語学校の寮に入った。「農家を継ぐより、若さを生かして経験を積みたい」という思いだった。猛勉強の日々を送る中で「お金をいっぱいため、実家に送ろう」と日本に渡る決心をした。両親と兄2人、妹1人の6人家族。交際していた女性もいた。両親が畑を売って得た50万円を借りて渡航費用に充てた。
20歳だった17年5月、日本へ。1カ月間、静岡の研修センターで日本語を学び、宮城県にある大手住宅メーカーの下請け業者に配属された。内装仕上げの部品工場で時給は750円。保険や年金、家賃などを引いて、手元に残るのは月10万円ほどだった。だが、当時の東北地方は東日本大震災からの復興需要があり、60時間の残業で手取りは20万円近くに。自身は月3万円で生活し、3年で250万円を家族に送った。
一戸建ての寮に実習生9人で暮らした。倹約しながらも、休みの日は実習生の友人らと、紅葉狩りやスノーボードなど、母国にはない四季を楽しんだ。日本人の上司や同僚に誘われて行く地元店の「からし焼きラーメン」を堪能した。
だが、新型コロナウイルス禍による経済への打撃の余波が、実習生の労働環境を一変させた。
日本で3年間働き、4、5年目も働ける「3号」に合格。20年4月に一時帰国した。6月に日本に戻る予定だったが、コロナ禍で足止めされた。働きながら再渡航の日を待つ間、付き合っていた女性と結婚。盛大な結婚式も挙げた。
11月、日本に戻ることになった。妻は嫌がったが、実習の契約を結んでいた。久々に戻った職場は人も仕事も変わっていた。コロナ禍で仕事が減って多くの日本人従業員が去り、特に若い人がいなくなっていた。
仕事は徐々に戻るも、従業員の数は戻らず業務量は2倍に。床の製造ラインを3人、屋根を6人で回していたコロナ前に対し、床を1人、屋根を3人で担っても納期は同じだった。新たに雇われる人も、重い部品を運ぶ重労働と求められる仕事の速さ、工場内の暑さなどで2週間も続かない。「日本人は辞められるが、実習生は契約上、辞められない。文句も言えない」
技能を学ぶ実習生が担うはずがない管理業務も担わされ、最初に出勤し、最後まで職場に残る日々が続いた。週1日の休みは寝るだけで、自分の時間はほとんどなかった。時給は900円まで上がったが、息をつく間もない業務量に、心も体も限界を迎えていた。
誰にも相談しなかった。実習生の問題は本来、監理団体が対応するが、「『我慢して働け』って言われるのは分かっていた」。監理団体は、実習生を企業に受け入れてもらうことで収益を得ているからだ。
21年12月末の冬休み。家族に送る70万円を持って、寮から逃げ出した。頼った先は、栃木にいる同国の友人。その後、再び仕事探しをするために、神戸市長田区の国際協力団体「PHD協会」が運営するシェアハウスに移った。
過酷な労働環境でも、日本にこだわるのは、やはり「お金」だ。一時帰国した際、兄にお金を借りて土地を買った。いったん帰国し、再渡航を待つアフマッドさんは「全部悪いことばかりじゃなかった。もう一度頑張りたい」と前を見る。