運命の糸が紡がれて誕生した「ミスターファイターズ」田中幸雄さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(13)

引退セレモニーで、胴上げされる田中幸雄さん=2007年11月、札幌ドーム

 プロ野球のレジェンドに、現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第13回は日本ハム一筋22年の現役生活を送った田中幸雄さん。さまざまな出会いによって紡がれた運命の糸が「ミスターファイターズ」の誕生には欠かせなかった。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽親の反対を押し切って強豪校を自ら選んだ

 中学最後の夏の大会があった頃の身長は160センチあるかないかで、卒業時に172ぐらいに。半年で結構伸びました。高校3年の最後には182ほどになってました。両親はすごく小柄だから、僕がこんなに大きくなるとは思わなかったでしょうね。明治42年生まれの祖父が170センチぐらいで、当時の人では大男ですよね。隔世遺伝だったのかなと。
 (宮崎県都城市の)中郷中の野球部では肩が強いということで、監督にショートで使ってもらった。ありがたいことです。その監督に見いだしてもらえなければレギュラーになれなかったし、その後に都城高へ進むこともなかった。監督は教員の方で球歴は聞いたことがないが、とにかく野球が大好きでしたね。

1986年のルーキー時代の田中幸雄さん。日本ハム一筋22年の現役生活を送り、ファンからは「ミスターファイターズ」と呼ばれた

 中郷中は小学校が2校くっついた中学で、僕の通った梅北小と、もう一つは安久小。安久小の野球チームはすごく強く、中学に入学した時も主力は安久小の生徒たちが多かった。その中でレギュラーを取って試合に出るのは最初難しいかなと思っていました。身長は野球部の中で平均より下。それほど目立った選手ではなく、打順は2番とか8番、9番を打っていました。
 甲子園に行きたいという夢があり、当時は都城高が甲子園に一番近いということで、特待生でも何でもない一般入試で進学しました。当時、中郷中のピッチャーが都城市ではナンバーワンで、都城高から引き抜かれて。その同級生も一緒だからと自分で決めました。親には最初反対されたんです。厳しい私立強豪校でしたから、野球が続かないんじゃないかと心配したみたい。反対を押し切って、とにかく頑張るんで行かせてくれって。

 ▽監督の交代がプロ入りに大きく影響

 話には聞いていましたが、都城高は練習時間も長いし、1年生は球拾いとかランニングとか基礎体力をつける練習ばかり。本当にきつくてね。でも辞めたいと思うことはなかった。自分で決めたわけですから、何とか頑張って3年間やり遂げて甲子園に行ければな、という気持ちでした。
 僕の一つ上の代が主軸になったら、また肩が強いのを買われてショートを守るようになりました。野球は団体スポーツですから、監督の目に留まって使ってもらわなければならない。中学、高校と、そういう流れは良かったのかなと思います。
 その頃は2番打者でバントだったりエンドランだったり。打球も中堅から逆方向にしか飛ばない。ホームランも打ったことなかったです。当てるのが上手だと監督は言ってましたけど。先輩たちは非常に体が大きくて打力もすごく、そのチームで春の甲子園に出られました。1学年上に田口竜二さん(後にドラフト1位で南海=現ソフトバンク=入団の投手)がいました。

1988年9月の西武戦で適時打を放つ田中幸雄さん。同年に初のベストナインとゴールデングラブ賞を獲得=東京ドーム

 3年になって監督が代わったんですね。社会人野球の出身の方だった。僕はノーステップで軽打するようなバッティングでした。それを見た監督が、右足にしっかり体重を乗せてからステップして、反動を使う打ち方にしてみろということで、フォームを変えたんです。それで打球がすごく飛ぶようになり、レフト方向へ引っ張れるようになりました。
 監督が代わっていなければホームランも打ててなかったかもしれません。3年では練習試合も含めて30発ぐらい打ち、スカウトが見に来ているという話があって、もしかしたらプロ野球に行けるのかなと思い始めました。ドラフト会議の時は教室で授業を受けていましたが、全校放送で名前を呼ばれて、職員室に行きなさいってことで。急きょ記者会見の場所が設けられました。

 ▽いろいろな方の助けでファイターズに

 日本ハムの方は見に来られていたらしいんですが、僕は3年夏の最後の試合で全く打てなかったんですね。当初はスカウト会議で(評価が)良くなかったようです。
 たまたま高校の近くに、大社義規オーナー(当時)が宮崎に来られた時の運転手さんがおられた。野球の大好きな方で、オーナーに僕のことを話してもらったみたいです。オーナーから(当時球団幹部の)大沢啓二さんに話が伝わり、大沢さんがじきじきに都城に来て練習を見られたそうです。その時の僕はもう絶好調で、大沢さんの目に留まったってことですかね。スカウト部長に「おまえら何を見てんだ」って怒ったらしいです。
 いろいろたどっていくと何か運が良いというか、人との出会いじゃないですけど、そういった方の助けもあってファイターズに入れました。広島がドラフト4位か5位で取るという話も後になって聞いたんですけど、その前に3位で取ってもらいました。

1995年9月のオリックス戦で、イチロー(左)を挟殺プレーでタッチアウトにする田中幸雄さん。このシーズンは打点王に輝く=東京ドーム

 ▽お手本にさせてもらった大島康徳さん

 ファイターズでなければ、今があるかどうかも分かりません。プロでは7人の監督の下でプレーしましたが、影響を受けたのは高田繁さんですね。1年目から1軍に上げてもらい、3年目からフルイニング出るようになった。監督が高田さんでなければ、途中でクビになってもおかしくなかったです。2年目はエラーばっかりして(パ・リーグ最多の25失策)。守備が下手でも我慢して使ってもらった。当時はコーチに任せていたのか、若い頃に直接、高田さんと野球に関して何か話した記憶があまりないです。じーっと黙って見ていてくれていたという感じですかね。

2000年9月、シドニー五輪のイタリア戦で日本代表の田中幸雄さんは本塁打を放ち、三塁に向かう=アクリナ公園球場

 大島康徳さんが中日から来られたのは僕がちょうど3年目。キャンプ中に打撃のことをいろいろ話していただいた。球を引きつけて右方向に強い打球を打つことを覚えなさいと言われ、全体練習終了後に一人でマシンを使って黙々と打ちました。キャンプ終盤に自分の中で少し良い感触が出て、その3年目は非常に成績が良かった。大島さんをお手本にさせていただいた部分もありました。
 日本ハム監督としての大島さんは勝負事に関して負けることが嫌いな方で、熱い思いを持っているところがありました。見ての通り明るくて元気で、試合中も調子が良ければにこにこ笑って、悪い時は悔しそうな表情を見せて、感情を顔に出す方でしたね。

2004年9月のダイエー戦で起きた珍事。サヨナラ「満塁本塁打」を放った新庄(左)が歓喜のあまり一塁走者の田中幸雄さん(左から2人目)と抱き合い、その後に走者追い越しで本塁打は取り消されてサヨナラ安打となった=札幌ドーム

 ▽思い入れのある球団に最後までいられて幸せ

 2千安打が近づくと、はいつくばってでも絶対打つべきだと周囲に励ましていただいたが、2003年にヒルマン監督になって出場機会が減りました。自分の中では、まだ打てるという気持ちも持っていました。ずっと試合に出てきた人間からしてみると、出場が少なくなると寂しいし、野球が面白くない。そこの葛藤がすごくあったですね。結局、残り100本から2千本まで4年かかりました。
 当時、年齢は一番上でしたし、ベテランになるとコーチの方とかも気を使って、なかなか声をかけてもらえない。自分で自分をうまくコントロールしなければいけない部分もありました。その時期にしっかり立場を理解した中で取り組めれば良かったのですが、何で起用してくれないんだと、ちょっとした不満も持っていた。それは引退した後に反省しましたね。

2007年の引退後、田中幸雄さんは10年から日本ハムのコーチとなり、15~17年は2軍監督を務めた=2017年撮影

 移籍の話は、たぶんなかったんじゃないですか。自分はどこにも出るつもりはないと公言していたので。大社オーナーから始まって、思い入れのある球団ですから、ここで野球人生が終わるまでやりたいなと。それがかなって本当に良かったです。他の人たちはいろんなタイプがいます。年俸で行く人もいれば、違うチームの方が好きだからとか、メジャーを目指したいって人もいる。自分としてはファイターズに対しての愛着ですかね。このチームでしかやらないという強い気持ちだけでした。
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 田中 幸雄氏(たなか・ゆきお)宮崎・都城高から1986年にドラフト3位で日本ハムに入団。強肩強打の大型遊撃手で、2年目からレギュラーで起用された。95年に打点王を獲得。2007年5月に2千安打を達成して名球会入りし、同年限りで引退した。ベストナインが4度、ゴールデングラブ賞は5度。通算2012安打。引退後は日本ハムの2軍でコーチと監督を務めた。67年12月14日生まれの55歳。宮崎県出身。

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