「ズドーン」。深夜、学童疎開船「対馬丸」を襲った衝撃。「乗らないと死ぬ」。2畳ほどの竹のいかだを奪い合う人々。9歳の私は足を引っ張られ、乗っても海へ戻された〈証言 語り継ぐ戦争〉

撃沈された対馬丸の生存者、平良啓子さん=沖縄県大宜味村喜如嘉

■平良啓子さん(88)沖縄県大宜味村喜如嘉

 沖縄県国頭村の安波国民学校4年だった9歳の時、宮崎に疎開する話を聞いた。「憧れの汽車に乗り雪を見たい」と母にせがんだ。

 母は迷っていたが、次兄=当時(11)=が勝手に申し込んできた。祖母=同(67)=と長兄の婚約者、姉=同(17)、次兄、いとこで同じ年の時子と計6人での疎開が決まった。父と長兄は東京におり、幼い妹や弟がいたため母は残った。

 「将来を担う人の命を守る」と国が疎開を推奨したのは本心でない。沖縄戦を控え、邪魔な子どもや女性、高齢者を内地に送りたかった。兵隊に食糧を回す口減らしをしたかったのだ。

 学童疎開船「対馬丸」で1944(昭和19)年8月21日夕方、那覇港を出た。船内は棚が多く、かがまないと歩けない。「貨物船か」と不満そうな人もいた。

 22日の日中は天気がよく、時子と甲板で遊んだ。祖母と一緒にいたおばさんが「私は生きて帰れんよ。太平洋にこぼされに来た」とつぶやいたのを覚えている。夕日を見たら寂しくなった。時子と「お母さんに会いたい。来なければよかったね」と語り合った。兄に呼ばれ、船底で救命胴衣をもらった。

 その後、船尾の甲板に集められ、兵隊から注意を受けた。「今夜は危ない。一つ、おしゃべりをするな。静かに。二つ、食べ物を海に捨てるな。三つ、泣く子を連れている者は船底へ戻れ」。何か不穏な空気を感じたが、私と時子は甲板で祖母に寄りかかり、いつの間にか寝入ってしまった。

 ズドーン。すさまじい音で目が覚めた。既に火の手が上がって船が傾いており、身内を見失った。「お父さん、助けて」「兵隊さん、どこ」。暗闇に悲鳴が響き、大人が幼い子を脱出させようと海に投げていた。直立不動で君が代を歌う兵隊が炎の明かりで見えた。

 台風15号が近づき、海は荒れ狂っていた。油混じりの波が容赦なくたたき付ける。油が顔にこびりつくと息を吸えなくなり、何度も拭った。油にまみれて息絶えた児童らの遺体がそこら中に浮かんでいる。人か物か、区別がつかなかった。

 しょうゆだるをつかんでいたら大波が押し寄せ、何かがぶつかった。時子だった。一緒にたるにつかまっていると姉の声が聞こえた。「啓子、時子、早く飛び込め。危ない」。「姉ちゃん、待って」と叫んだが、離ればなれになった。

 激しく泣く時子を励ましていたら再び大波に襲われた。その際に時子が手を離してしまい、波間に消えた。目を凝らして懸命に捜したが見つけられず諦めた。

 途方に暮れていると、約50メートル先に人が集まっているのに気付いた。遺体や物に阻まれ前に進めない。たるを捨て、泳いで向かった。

 大勢の人々が竹でできた一つのいかだを奪い合っている。「乗らないと死んでしまう」と私も命懸けだった。片手でつかんだ途端、足を引っ張られた。怖くなって必死で蹴飛ばした。

 体が小さく、乗っても簡単に海へ戻される。潜って人の少ない場所まで回り込み、何とかはい上がった。隙を見て中央に滑り込み、編み目の縄を握り締めた。「後から来た」と何度も背中をたたかれたが、救命胴衣のおかげで痛くなかった。

 23日朝になった。いかだは2畳ほどで、私を含め10人いた。おばあさん2人とおばさん3人、7歳くらいの女の子とその母親、乳飲み子を抱えた若い母親だった。

■対馬丸事件

 1944年8月22日午後10時12分ごろ、十島村悪石島の北西約10キロ沖合で、学童疎開船「対馬丸」(6754トン、14年英国製)が米潜水艦ボーフィン号から魚雷を受け、約10分後の23分ごろに撃沈された。同21日午後6時35分、5隻の船団で那覇港を出て、長崎へ向かう途中だった。対馬丸記念館(那覇市)によると、1788人(2005年7月27日現在)が乗船し、犠牲者は学童784人を含む1484人(17年8月22日現在)。生存者は奄美大島で救助された21人を含む280人(同)とされる。

(2023年1月23日付紙面掲載)

【地図】対馬丸の航路
対馬丸(日本郵船歴史博物館所蔵)

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