撃沈された学童疎開船「対馬丸」。いかだで漂流した10人のうち、乳児が母親の腕の中で死んだ。寝たら海に落ち死ぬ…おばあさんの姿が消えた。6日目、無人島に漂着。生存者は4人に減っていた〈証言 語り継ぐ戦争〉

平良啓子さんらが漂着した宇検村枝手久島

■平良啓子さん(88)沖縄県大宜味村喜如嘉

 学童疎開船「対馬丸」が撃沈された翌日の8月23日、日本の飛行機が上空を飛んでいた。いかだの上で手を振り、「助けて」と大声で叫んだが、戻ってこなかった。

 24日、いかだの端で用を足していた時、トビウオを1匹捕まえた。一緒に食べようと隣の人に預けたら勝手に食べられ、悔しくて泣いた。竹筒が流れていたので泳いで取りに行った。小豆ご飯が入っており、分け合った。若い母親の腕の中で乳児が息を引き取った。

 25日朝、おばあさんがいなくなっていた。「私の分をお食べ」と小豆ご飯をくれた人だ。寝て、海に落ちたら死ぬ。眠いのを必死でこらえた。若い母親も疲れ切っており、乳飲み子の遺体を波にさらわれた。

 今度は別のおばあさんが海に落ち、引き揚げた。しばらくするとまた落ちる。「もう死んでいるよ」。他の人に言われるまで気付かなかった。目が開いており、生きていると思っていた。「ごめんなさい」と手を合わせて拝み、遠くに流れていくのを見送った。

 日中は太陽が照り付け、夜は寒かった。台風15号の接近で波が高い。26日になると肌は焼けただれて皮がむけ、潮風でひりひりした。服もぼろぼろ。髪が塩で固まり、抜け落ちた。とてもひもじく、喉が渇いた。

 いかだの10人は27日までに5人になった。サメに襲われる人を見たことがあり、自分たちに近づいてきた時は生きた心地がしなかった。夕方、誰かが「島じゃないか」と叫んだ。しかし日が落ちたら見失った。

 漂流6日目の28日明け方近く、島影が再び現れた。いかだが島の方に流され岩場に乗り上げた。宇検村の無人島・枝手久(えだてく)島だった。

 いかだを降り、四つんばいで岩につかまった。目が回り歩けない。それなのに突然、7歳くらいの女の子を背負わされた。「母ちゃん」とつぶやいたきり、何も言わない。しばらくゆっくりしたら気分がよくなり、女の子を浜に下ろした。

 青草を見つけて食べた。谷あいを掘れば水が湧くかもしれないと山裾へ向かった。地面を根気強く掘ったら爪が湿った。さらに掘り続け、泥水が出てきた。澄まして飲み、喉を潤した。

 女の子の母親に「娘にも教えて」と言われ、浜へ戻った。「水があるよ、起きて」。声をかけても動かない。目を開けたまま息絶えていた。とうとう大人3人と私の4人になった。

 舟だ-。沖へ向かう2そうのくり舟におばさんが気付いた。私はここぞとばかりに小高い岩に登った。「1、2、3」と音頭を取り、「おーい、おーい」と全員で声を張り上げた。

 船頭が櫂(かい)を止め、こちらを振り向いた。「おいで、おいで」。倒れるほど両腕を振った。「これで助かる」と心底思った。あの時の喜びは何とも言えない。

 久志集落の計10人ほどが舟に乗っていた。浜へ上がって来て、大人から事情を聞いた。船頭の中原見附(みつけ)さんが「お嬢ちゃん、よく頑張った。偉かったね」と優しく声をかけてきた。「さあ、お食べ」。白いご飯と柔らかい黒砂糖が入った飯ごうを差し出した。

 私は夢中で頬張り、なめ尽くした。そのおいしかったこと。集落に戻る舟で中原さんの太ももに座り、古ぼけた麦わら帽子をかぶせてもらった。

 近くの船越(ふのし)海岸に多くの遺体が漂着したと後で知った。住民が一人一人の穴を掘り、埋葬してくれたという。沖縄の遺族が改葬しやすいよう一つの大きな穴にまとめて埋めなかったと聞いた。

(2023年1月24日付紙面掲載)

【地図】対馬丸の沈没地点と、平良さんが漂着した宇検村枝手久島
平良啓子さん

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