臼井城址公園 良いですよ【駅ぶら05】京成電鉄 本線153

※2022年6月撮影

トップ画像は、太田図書の墓からエンノ坂を下って行くと左側に「臼井城跡」の石碑があります。

佐倉市教育委員会の案内板。

※2022年6月撮影

内容を写します。

「臼井城跡

千葉氏の一族臼井六郎常康が臼井に居を構え、臼井氏の中興の祖といわれる興胤(14世紀中頃)の代に、この城の基礎がおかれたと伝えられる。現在の遺構は15世紀以降のものと考えられるが、城跡は本丸、二ノ丸を中心として、空堀、土塁等の旧態をよく残している、

戦国時代の末期には原氏が城主であったが、天正18年(1590)小田原落城により、千葉氏とともに滅んだ。以後酒井家次三万石の居城となって慶長9年(1604)の転封まで使用された。太田道灌・上杉謙信の軍との攻防戦は有名である。 昭和62年3月 佐倉市教育委員会」

その横に「名勝・臼井八景」の案内。

※2022年6月撮影

こちらも内容を写します。

「城嶺夕照

いく夕べ 入日を峯に送るらん むかしの遠くなれる古跡

永久2年(1114)に千葉常兼の三男常康が初めて臼井の地を治めて以来、16代臼井久胤までの約450年間、臼井氏は長くこの地の領主であった。その後臼井城は原氏や徳川家康の武将酒井家次の居城となったが、文禄3年(1593)の火事によって、この台地にあった城郭は焼失してしまった。「臼井八景」は、それからおよそ百年後の元禄期に作られたものである。臼井久胤の玄孫にあたる「臼井八景」の作者は、夕映えの美しい城跡の嶺に立って、自分の祖先が臼井城の城主であった頃の遠い昔を偲びながら、感慨深く前掲の歌を作り上げたものである。

城跡の近くには、往時の土塁や空堀の一部が今でも昔のままに残っている。本丸跡の発掘調査により、15世紀の中国・明時代の陶磁器の破片や、城が火事になった時の焼け米などが発見されている。

北側の山裾には、第六代城主臼井興胤が1339年に創建した瑞湖山円応寺がある。また、空堀の近くには、文明11年(1479)に臼井城を攻めて討死した太田道灌の弟・図書の墓がある。

題字 佐倉市長 菊間健夫 選文 立原三知男」

二ノ丸跡は草原になっています。

※2022年6月撮影

臼井城址公園の案内図。左下の南口から入って、この後本丸跡を通って東口から県道に向かいます。

※2022年6月撮影

二ノ丸跡西側のトイレ。

※2022年6月撮影

空堀が見えます。

※2022年6月撮影

佐倉市教育委員会の「土橋」の案内。

※2022年6月撮影

こちらが本丸跡。

※2022年6月撮影

広いです。

※2022年6月撮影

京成臼井駅の方を見ました。右上の大きなマンションがちょうど中間辺り。お婆さんとすれ違った階段がマンションの右側にあります。この後、正面の森・丘の左側をまわって駅に戻ります。軽く1km以上ありましたね。(笑)

※2022年6月撮影

次回は印旛沼が見えます。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京成電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

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