「私は加害者なのか…」。学童疎開船「対馬丸」の撃沈で生き別れたいとこの母が言った。「(いとこを)太平洋に置いてきたの」と。生き残った後も苦しみは続いた〈証言 語り継ぐ戦争〉

医師の碇元章世さんの墓参りをする平良啓子さん(手前)=2017年3月、宇検村宇検(同村役場提供)

■平良啓子さん(88)沖縄県大宜味村喜如嘉

 1944(昭和19)年8月28日昼ごろ、鹿児島県宇検村の無人島・枝手久(えだてく)島から久志集落に着いた。医師の碇元章世さんに診てもらい、診療所に泊まった。多くの住民が差し入れを持ってきた。

 29日、「遭難者がいたら出てこい」という声が聞こえてきた。軍の命令には絶対に逆らえない。ふらふらしながら夕方、軍船に乗った。枝手久島で亡くなった少女は荼毘(だび)に付され、母親が遺骨を抱いていた。

 同日夜、瀬戸内町古仁屋に到着。はだしで宿まで歩いた。20人ほど収容されていたと思う。軍部は生存者を1カ所に集め、学童疎開船「対馬丸(つしままる)」が撃沈されたことを口外しないよう、かん口令を敷いたらしい。食事はおかゆばかり。空腹が満たされなかった。

 ある日、行商のおばさんに「どこの子」と尋ねられ、「(沖縄県)国頭村安波です」と答えた。「私は隣の安田(あだ)よ」とびっくりした表情を見せ、食堂であんこ餅を食べさせてくれた。

 そこに偶然通りかかった津嘉山朝吉さんをおばさんが呼び止めた。同じ安田出身という。「安波の子。遭難したって」と説明した。

 津嘉山さんが「お父さんの名前は」と聞いてきた。「宮城徹です」。「えっ、徹の子か。友達だよ」と驚いた。その場で「啓ちゃんを引き取る」と私を連れ出し、ワンピースを買ってくれた。徳之島などで肉牛を仕入れて船で運び、軍部に売る商売をして金持ちだった。私が生きていると沖縄の母に電報で知らせた。

 古仁屋の津嘉山家で半年ほど過ごした。わが子のようにかわいがってもらい、元気を取り戻した。お手伝いさんが理髪店や銭湯に連れて行ってくれた。

 45年2月20日ごろ、津嘉山さんが沖縄に帰るのに合わせ、一緒に出港した。米軍機の攻撃があり、与論島の港に隠れたり、船に木をかぶせて偽装したりして22日夜、安田に着いた。

 23日、母が迎えに来てくれた。抱き合い、泣きじゃくった。家に戻る途中、一番会いたくない人に会った。対馬丸に一緒に乗ったいとこ(時子)の母親だ。

 「時子は太平洋に置いてきたの」。胸に突き刺さり、返す言葉がなかった。「啓子が行ったから時子も行き、死んだと思っているだろう。私は加害者でもあるのかな」と苦しくなった。

 ほかの同行者4人は、長兄の婚約者と姉が漁船に救助されて鹿児島に着いた。祖母と兄は戻らなかった。

 沖縄では地上戦に巻き込まれた。母が感染症のマラリアにかかり、妹や弟の面倒を見ながら逃げ回った。セミやトンボ、カエルを食べて命をつないだ。

 19歳の時、対馬丸犠牲者の慰霊祭に出た。「生存者よ」とささやかれ、「生きていればこんなに成長したかね」と体を触られた。とてもつらく、その後しばらく参列できなかった。出席しても終わり間際に、後ろで隠れるようにしていた。

 人の命を物のように粗末に扱った時代を二度と繰り返してはいけない。子どもに惨劇を伝えようと小学校の教師になった。在職中から講演で全国各地を飛び回った。800回を超える。

 対馬丸の犠牲者は1484人。約100人の児童を前に話す時、この十数倍もの命が失われたと考え、悔しくて仕方がなかった。平和のために経験を語るのは務め。記憶のある限り言い尽くさなければと思う。

 奄美の人は本当に優しくしてくれた。決して恩を忘れない。今でも夢に見る。宇検村はこれまで数回訪れた。2017年3月の対馬丸慰霊碑の完成式に参列し、恩人の墓参りをした。

 最近、戦争の足音が聞こえてくるような新聞の記事が多く、とても怖い。戦争は憎い。絶対にしたらだめだ。

(2023年1月25日付紙面掲載)

【関連地図】平良啓子さんが遭難した後の足取りが分かる
撃沈された対馬丸の生存者、平良啓子さん=沖縄県大宜味村喜如嘉

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