ジョン・レノン夫妻が綴った54年前の「手紙」、佐藤栄作首相に原爆映画公開を求めた真意とは 外務省外交史料館に眠っていた「平和への切なる思い」

ジョン・レノンさん(右)とオノ・ヨーコさん(ゲッティ=共同)

 1969年、ビートルズのメンバーだったジョン・レノンさんが、妻のオノ・ヨーコさんとともに、当時の佐藤栄作首相に宛てた「手紙」がこのほど、東京都港区にある外務省外交史料館で見つかった。日本国内の公開に限られていた原爆投下直後の被爆地の様子を記録した映画に関して、海外での公開を日本政府に要請していた。
 「広島と長崎で起きた(核兵器の)残虐な行為が繰り返されないことを願う」
 文面からは2人の平和に対する切なる思いが伝わってきた。(共同通信=杉田正史)

 ▽平和の発信「日本人の責任」

 原爆被害の実態調査を目的とした映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」の撮影作業は、終戦直後の1945年9月から始まった。理化学研究所の科学者や映画会社などが参加し、爆心地の推定作業や医療活動、人体への影響がフィルムに収められた。
 ただ翌年に米国側が接収し、「Effects of the Atomic Bombs on Hiroshima and Nagasaki」のタイトルで保管されていた。
 日米間の交渉の末、67年11月に日本側に約3時間にわたる複製版が返還され、「幻の原爆映画」の公開に期待が寄せられた。しかし被爆者の個人特定を避けるなどの配慮から行われた映像編集に対し「悲惨さが伝わらない」といった批判が相次ぎ、反発した市民らによる「ノーカット運動」が起こった。
 外交史料館に所蔵されていた公文書などによると、ヨーコさんは69年12月6日未明、ロンドンから国際電話で、当時の文部省にテレビ放送向けに編集されていない完成版フィルムの貸し出しを要請。しかし「海外への貸し出しは行わない」と断られた。

ジョン・レノン夫妻が原爆記録映画の公開を求め佐藤栄作首相に宛てた文書=東京都港区の外交史料館

 同17日には、レノンさん夫妻のそれぞれのサインと似顔絵風のイラストと合わせて、佐藤首相宛てに文書を送付。「不確実な世界の観点から、ノーカット版フィルムはとても重要」と再度貸し出しを求め「緊急を要しており、広島と長崎で起きた残虐な出来事を世界に伝えることは日本人の責任です」と主張。最後に「日本国外での公開する許可を与えて下さい」と丁寧な言葉で締めた。それに対し、70年1月に佐藤首相の秘書官だった小杉照夫(こすぎ・てるお)氏の名前で「日本政府の方針で、国外での公開目的でフィルムは貸し出せない」と拒否する返信を作成していたことも判明した。ただ実際に送ったかどうかは今回の公文書に記されていなかった。

 ▽難航したフィルムの返還交渉

 原爆記録映画を調べている広島大原爆放射線医科学研究所の久保田明子(くぼた・あきこ)助教によると、1967年に日米間で何度も行われた映画フィルムの返還交渉は、米側が神経をとがらせていたため難航したという。同5月の交渉に関する外交文書には「空軍省が強硬に反対している」との記載があった。米側は、冷戦に加えてベトナム戦争や沖縄返還問題による反米感情を踏まえ「悪意ある宣伝への利用」を警戒していた。

ジョン・レノンさん、1969年撮影(AP=共同)

 最終的に日本側が、広島の原爆資料館の陳列物に比べ「凄惨さは少ない」と説得し、67年11月に複製フィルムが戻った。久保田氏は「米側は日本に映画公開の可否判断を任せようとした。公開でマイナスの影響が出た場合、自らに(責任が)及ばないようにしたのではないか」と指摘する。

 ▽次に欲しいものは…

 ビートルズ研究家の藤本国彦(ふじもと・くにひこ)氏は、レノンさんはビートルズとして活動していた1966年にオノ・ヨーコさんと出会った頃から「楽曲が変化していった」と語る。ヨーコさんへの思いや社会的メッセージを発言するようになり「同年の日本公演の記者会見で、お金や名誉を手に入れて次に欲しいものを聞かれ、『平和』と答えたのが象徴的だ」と説明する。

記者会見するビートルズのメンバー。(左から)ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、リンゴ・スター、ジョージ・ハリスン=1966年6月29日、東京都内のホテル(ヒルトンホテル)

 69年3月の結婚後、レノンさんは反戦活動「ベッドイン」や楽曲「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」「平和を我等に」「イマジン」など平和への訴えをさらに強めていったという。
 藤本氏によると、レノンさんは当時、「喜んでピエロになる」と語るなど、スターの立場を平和活動に生かそうとしていた。原爆記録映画の公開要請は「知名度がある自分たちが映画の公開に関われば、原爆に注目が集まるのを分かっていたからだろう」と解説する。佐藤首相に公開を求めた話は関係者の間で知られていたが「実際にサイン入り文書が残っていたのは知られておらず、貴重な資料だ」と話した。

ジョン・レノンさんとオノ・ヨーコさんが、ベッドの上から反戦平和を訴えた「ベッドイン」のパフォーマンスを捉えた写真展=2017年12月、東京・渋谷

 ▽殺す理由も、死ぬ理由も、宗教もない

 今年5月のG7広島サミット開催に対し、岸田文雄首相は「核兵器のない世界に向けた力強いメッセージを発信できるよう議論を深めていきたい」と意気込む。
 しかし、ウクライナに侵攻したロシアが核兵器で威嚇を続け、核使用の可能性も現実味を持って語られる中で、日本政府は国家安保戦略に明記した反撃能力(敵基地攻撃能力)保有など防衛力の抜本的強化や防衛費の大幅増額方針を決めた。日本政府は広島サミットで各国首脳による原爆資料館の視察などを検討している。言葉だけでなく、原爆の惨状に目を向けさせる行動が求められている。
 レノンさんの楽曲「イマジン」の歌詞にこんな1節がある。
 「想像してごらん 国なんてないと 難しいことではないさ 殺す理由も死ぬ理由もない そして宗教もない 想像してみて すべての人々が ただ平和に暮らしていることを」
 半世紀がたち、レノンさんの平和を求める思いは日本政府に伝わっているだろうか。

ジョン・レノン夫妻が原爆記録映画の公開を求め佐藤栄作首相に宛てた文書=東京都港区の外交史料館

 【レノンさん夫妻の平和活動を巡る主な経過】
 1966年6月 ビートルズ来日。レノンさんは、欲しいものは「平和」と発言
 69年3月 2人が結婚。ベッドの上で反戦を訴える「ベッドイン」運動を実施
 7月 「平和を我等に」を発売
 12月 佐藤栄作首相に原爆記録映画の海外公開を要請
 71年9月 「イマジン」を発売
 80年12月 レノンさん、米ニューヨークの自宅前で射殺される

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