頑固一徹の長距離砲、門田博光さんが生前に語っていたルーキー時代の壮絶な決意 プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(14)

南海ホークス時代の門田博光さん=1987年8月26日

 プロ野球のレジェンドが、現役時代やその後の活動を語る連続インタビュー「名球会よもやま話」。第14回は惜しくも74歳で亡くなった門田博光さん。生前の2021年9月、共同通信の取材に応じて貴重な言葉を残された。567本塁打の歴代3位記録を打ち立てる根源となったのは、ルーキー時の壮絶な決意だった。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽自分の性格が変わるぐらいに何かにトライしないといけない

 社会人野球のクラレ岡山には4年お世話になりました。その中で2年目までは補欠。早稲田や明治、関西の有名な大学から来る人は、プロへ行ける人なのに行けなくて(社会人に)来たような実力者が多かった。バッティングもワンランク上で、はるかに飛んでいく打球だった。えー、この人らがプロへ行けないのか、この人らの実力を追い抜かんことにはプロへは行けないのかと、自分の技術力のなさを感じた。
 この人らを抜くためには、自分自身の性格が変わるくらいに何かにトライしていかないと、と考えた。1年目の後半ぐらいだったと思うんですが、いろんな努力をするよりは、どんな状態でもいいから1年間、鏡の前でスイングをやろうと決めた。そして1年後、自分がどう成長しているかを確かめるために。1日たりとも休むことなく、100本をめどに思いっきり素振りをしたら、どう変化するか。まずやってみようと。

1971年、プロ2年目のシーズンに臨む門田博光さん。打率3割、31本塁打、120打点を挙げて打点王と飛躍の年になった

 三度の飯を食うがごとく、その時間がきたら寝てても体が勝手に起きる。習慣性の怖さを知りました。寮は木造で、鏡の前の廊下が灰色をしていた。だけど、私が毎日振るために、足跡の2カ所だけ新品の木材のように変わるわけですよ。スイングして2カ所だけ回転するのでワックスをかけたように、きれいな足跡ができる。それで、スタンスがずれてるなという調整もできました。

1976年6月の阪急戦で本塁打を放つ門田博光さん。この頃までは中距離打者の印象があった=大阪球場

 練習が終わると、いつでも風呂に入れました。寮の敷地内に、きれいな大きい風呂が24時間沸いていました。工場が3交代制で、工場で働いた人が入れるように。私、風呂好きでしたから、どんなに苦しくても風呂に入れるうれしさがありました。いつでも練習はできる、風呂には入れる。もってこいの環境がそろっていた。
 3年目に代打から試合に出る回数が増え、年間にホームランが2、3本打て始めました。そして3年目の後半にレギュラー的な扱いをされて(ドラフト会議で)阪急がリストアップしてくれました。プロに行きたかったんですが、会社から今は駄目ですと断られて、もう1年。4年目にレギュラーになって、南海に指名が変わりました。

 ▽ホームランの二大巨頭を怒らせた何げない一言

 野村克也さんの南海監督初年度に入ったのが私。しっかり見てくれるんだという、うれしさはありました。2年目(打率3割、31本塁打)で、この世界で飯は食えるかなと悟りました。その数字を達成できたのは、私の1学年上に富田勝さんがおられたから。富田さんが3番で成功しまして、野村監督が私も第二の富田の活躍ができる候補ということで、試されたわけですよ。私とすれば富田さんの数字を抜かんことには認められないと、これも大変な努力はしましたけどね。
 31本塁打は大まぐれ。私はもう無名ですから、相手のピッチャーはカーブなんか放ってきませんのですよ。知名度のない打者にはカーブやフォークを放ったりしません。考えることなく真っすぐ一本で、真ん中周辺を待っておれば3割打てた時代なんです。翌年から、真っすぐじゃあかんな、カーブもフォークも放らなとなってきましてね。カーブなんか私、打ったことないからホームラン数も減りましたが、真ん中周辺の真っすぐを打っとったら3割は打てるというのは分かりました。

1988年10月の西武戦で門田博光さんは自己最多に並ぶ44号アーチを放つ。投手は現西武ゼネラルマネジャーの渡辺久信さん=大阪球場

 面白い話がありましてね。ひっくり返るぐらい振っていた新人の私に、野村さんがいつも「何でそこまでスイングせなあかんのや」って。私自身が分からないものだから、巨人とのオープン戦の時に監督が王貞治選手に「カドに話をしてあげてくれ」と相談した。この時の私は若くて、素直に頭を下げて「はいはい」っていう青年じゃなかった。「軽く打ってもホームランは出るんだ」という話をしている間に、私が言ってしまったんですよ。「2人で口裏合わせたんでしょ」って。野村さんが怒って怒って「おまえには二度と教えん」と捨てぜりふ。王さんは「えらいルーキーが入ってきましたね」って。それで話が終わってしまったんです、1分で。2人の後ろ姿は鶴が頭をたれたようだった。
 その姿を見て、この一番と二番のホームランバッターに割って入るか、3番手になるまで絶対にプロ野球でやり続けてやると決意したんです。とてつもない冷たい感覚が体を走りました。まだ私はホームラン0本。合わせて何百本と打ってる2人に対して、口裏合わせたんでしょと言った自分自身が怖くなりました。振り返ったら、こんなこと言う人、絶対におりませんから。あの2人を怒らせてしまったのが、私がプロ野球でホームランを打つ始まりでした。コーチに指導されて打てたんじゃなく、このナンバーワン、ナンバー2を怒らせたことが基礎というんですかね。他の選手には味わえない経験をして、目標を立ててしまったんですね。打てない時でも、まだまだ現役を辞めるまでに何年もあるから、2番手になれる、3番手になれるって、ひたすら自分を励ましました。

1988年11月、選手表彰式後のパーティーで、清原和博さん(左)西崎幸広さん(右)と写真に納まる門田博光さん=東京・飯田橋のホテルグランドパレス

 だからタイトルを取っても、うれしいんじゃなくて、あの2人の間に入るには喜ぶわけにはいかん、喜ぶわけにはいかんっていう顔でいました。だから、報道関係に受けは良くありませんし、社交性もありません。自分の心根では話をしてあげたいけども、悪いなあ、悪いなあいうて何とか耐え切れました。記者にもそうでしたし、家族にもそうでしたよ。オフになっても、どこにも連れて行くことなくね。甘えたくても甘えられへんねやと。みんなには簡単にできたと思われているけれど、家族も犠牲にして(本塁打記録を)つくり上げました。ごめん、思い出したら涙が出てきてしもて。

 ▽条件がそろっていなくても天下取りができる世の中だったのはラッキー

 変わりもんや言われるのがうれしかったですよ。補欠だった人間が、突き抜けたら誰でも夢がかなう。「石に立つ矢のためしあり」という言葉を、ひたすら自分に念じてですね。石なんかに矢を打ったって刺さらんやないか、だけど信念があったら刺さるはずやって、ずーっと感じ続けてきたもんですから、いつの間にか変わりもんになりました。プロ野球といえども上司の言うことがひたすら正しいんだという教育の時にね、私みたいに「そんなことありゃしませんよ」って言うたもんですから一匹おおかみになってしまった。

1992年10月、門田博光さんは近鉄の野茂英雄投手から空振り三振して現役生活を終え、ファンに別れを告げた=平和台

 そういう時代でしたから反対にやりやすかったんですよ。「長いもんには巻かれろ」が世間には普通のことでしたが、そんなことはない、こつこつ積み重ねていくことも正しいんだと。条件がそろっていなくても天下取りができる世の中だったのはラッキーかもしれません。今みたいに情報が猫もしゃくしも感じ取れると、天下取りというのは難しいですよね。あの頃は情報網がないもんですから、我流でやっつけていけた。素直に頑固になれて面白かったんですよ。駆け引きなしで。
 最近の選手は、とにかく器用に早くうまくなる人が多くなった。僕らの場合は年数をかけて(打撃を)つくり上げましたが、今はいろんな情報、いろんな鍛え方があるから日数がかからなくなった。だけど、あるところまでは早いが、そこから何か出し切らないっていう、もったいなさは感じる。この選手はもっと実力を出せるはずなのに、一つ二つ上へ突き抜ける力があるのに、自分を止めてしまうんだなと思うことがある。

2013年8月、ヤクオフドーム(現ペイペイドーム)での始球式を終え、野村克也さん(左)の手を取り、引き揚げる門田博光さん

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 門田 博光氏(かどた・ひろみつ)奈良・天理高―クラレ岡山からドラフト2位で1970年に南海(後のダイエー、現ソフトバンク)入団。79年の右アキレス腱断裂を克服。87年8月の2千安打到達で名球会入り。40歳の88年に44本塁打、125打点で2冠王となり「不惑の大砲」と称された。オリックス、ダイエーと移籍し、92年に引退。567本塁打と1678打点は歴代3位で、2566安打は同4位。2006年に野球殿堂入り。48年2月26日生まれ。山口県出身。

 【取材後記】
 門田さんは当時、兵庫県南西部の、岡山県との県境に近い山あいで療養生活を送り、人工透析を受けていた。電話での取材だったが、現役時代の思い出を語る声は時に弱々しく、時に張りがあった。目標達成のために家庭生活も犠牲にしたことを振り返られた際は、感極まったのか涙声に。家族思いだったという一面がにじんだ。合掌。

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