沖縄戦編成表に長崎県出身者か 複数人「生きた証し」遺構から発見 「残してくれた人に感謝」

旧海軍司令部壕で見つかった編成表(沖縄観光コンベンションビューロー提供)

 太平洋戦争末期の沖縄戦の遺構から旧日本海軍の部隊の人員を記した「編成表」が見つかり、長崎県出身者とみられる兵士の名前が複数人含まれていることが分かった。関係者によると、同様の資料が見つかる例はほとんどなく、過酷な戦場で兵士が生きた証しを残そうとしたものと考えられるという。
 編成表が見つかったのは沖縄戦で日本海軍の拠点があった旧海軍司令部壕(ごう)(沖縄県豊見城市)。昨年10月、約450メートルある地下壕のうち非公開の約150メートル部分でボランティアが遺骨や遺品の収集に当たったところ、縦13センチ直径4.5センチの薬きょうが見つかった。その中にA4用紙ほどの大きさの編成表が折り込まれていたという。
 編成表を見てみると、「海軍中尉 丸山友喜」を筆頭に兵士約40人の名が並ぶのを確認できる。同県で遺骨収集に当たっている南埜安男さんの調査によると、このうち「富永登」「白石常義」「眞瀬軍一」「井上豊」「古賀正彦」「近藤一郎」は本県出身の兵士とみられる。隊員は九州出身者が多いという。
 海軍壕を管理運営する沖縄観光コンベンションビューローの酒井達也主査によると、丸山氏に関する情報は資料によって差異があり確定はできないが、編成表は「丸山大隊」と呼ばれる部隊の可能性がある。
 丸山大隊は海軍陸戦隊として地上戦に参加。『戦史叢書(そうしょ)』の記述によると、丸山大隊約350人は日本軍の中枢、司令部があった首里方面に配備された。1945年5月末、日本軍が首里を放棄し南部へ撤退すると丸山大隊はそれを支援。過程で約270人の隊員を失い、生き残った兵士たちが本島最南端の喜屋武で米軍に夜襲を掛けて以降、消息を絶ったとされる。
 酒井主査によると、編成表のような資料は米軍の手に渡る前に処分したため現存するものは珍しい。「推測だが、迫り来る米軍に対して死を覚悟せざるを得ない状況の中で、自分たちの生きた証しを残そうとしたのでは」としている。

◎足取り知るヒント喜ぶ 「残してくれた人に感謝」 佐世保の遺族

 「遺骨も帰ってこなかったので…。ばあちゃんが一番喜んでいると思う」
 沖縄戦の遺構で見つかった「編成表」。そこに記された本県出身とみられる兵士の名前を調べたところ、「古賀正彦」さんの遺族が現在も佐世保市内に住んでいた。遺族は戦没者の足取りを知るヒントになる資料の発見に喜びをあらわにした。
 県連合遺族会が1972年に発行した戦没者写真集『風雪の塔』によると、正彦さんは海軍に所属し、45年に沖縄本島方面で戦死したと書かれている。享年25歳だった。

古賀正彦さんの遺影と沖縄で拾った砂(手前)=佐世保市内

 佐世保市在住の古賀三重さんは正彦さんのめいに当たる。本人と面識はないが、三重さんの祖母で正彦さんの母、スギヱさん(故人)から戦死した息子の話を聞いていた。古賀さん一家は戦前から佐世保に住み、父の米作さん(故人)は佐世保海軍工廠(こうしょう)に勤務。正彦さんは兄弟で一番頭が良かったという。
 だが、正彦さんの遺骨や遺品は遺族の手元に戻らなかった。海軍だから海で戦死したのだろうと考えていたスギヱさんや親せきは戦後、正彦さんの足跡を探して沖縄へ向かった。だが、手掛かりは何も見つからなかった。仕方なく沖縄の砂を拾って袋に詰め、遺品の代わりとしていた。
 息子がどのように死んだか分からないまま、スギヱさんは亡くなった。古賀家の仏壇には沖縄の砂が今も大切に供えられている。
 三重さんは「(正彦さんが)賢く優しかったから、かわいかったのだろう」と祖母の姿を振り返る。故人の足跡をたどるヒントになり得る編成表の発見には「残してくれた人に感謝したい。ばあちゃんもじいちゃんもうれしがっているはず」と感無量の様子で語った。


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