「長崎を愛し、三菱長船の礎築いた」 相川賢太郎さん死去 県内関係者ら別れ惜しむ

三菱重工業や出身地長崎のために尽力した相川さん=2012年、東京・港区、三菱重工本社(当時)

 95歳で死去した相川賢太郎さんは三菱重工業長崎造船所長から社長にまで登り詰め、その後も同社内で影響力を持ち続けた。生産現場でコスト管理を徹底し、世界に通用する競争力をもたらす一方、郷土長崎のために尽力。かつての部下や地元関係者はその功績をたたえた。
 「長崎をこよなく愛し、社員を大切にする人情味あふれる方だった。長崎造船所の礎を築いた」。相川さんの下で働いた男性は懐かしむ。所長時代に整備した史料館には、かつて試験運転中に破裂し死傷事故を招いた蒸気タービンのローターをあえて展示し、戒めとした。社長就任後は社宅や保養所など福利厚生施設を充実させた。男性は「利益が上がれば社員の幸せに投資したのがすごかった」。
 別の元男性社員は「コストに対してはシビアだったが、ユーモアあふれる指導をしてくれた」と振り返る。外注先で働いていた不動技研工業(長崎市)の濵本好哉元相談役(82)は「いろんな技術にたけた優秀な人。みんなから尊敬されていた」と語る。
 金子原二郎元農相は県知事時代、東京本社の相川さんの元に何度も足を運んだ。「長崎造船所を改称し、出張所のようにする話が浮上した時は、なんとか残してとお願いした。不況下でも“三菱発祥の地”を守り、長崎に造船が残ったのは彼の力によるところが大きい」と当時を振り返る。
 長崎商工会議所の森拓二郎会頭は「長崎の基幹産業である三菱重工長崎造船所の発展に寄与し、長崎に多大な貢献をされた。功績をたたえ、ご冥福を心よりお祈りする」とコメントした。
 相川さんは1992年から23年間、長崎県人会長を務めた。現会長の今泉弘人さん(87)は幹事長だった約30年前、会長就任を要請した。「ミスターコストダウンと呼ばれ、社長として多忙なころに引き受けてもらった。実直な人柄で総会には欠かさず出席し、会員の話を分け隔てなく聞いてくれた。本当に感謝している」と別れを惜しんだ。


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