クラシック音楽界3つの恋愛ドラマ~バレンタインデーに寄せて【榎政則の音楽のドアをノックしよう♪】

2月14日といえば聖バレンタインデーですね。バレンタインデーは、戦時下の結婚を禁止されたにもかかわらず、愛し合う二人の結婚式を執り行って処刑されたバレンティヌス司教の命日が由来となっています。以降、これを祈念して、2月14日は恋人たちの日となりました。日本では女性が男性にチョコレートを贈る日となりましたが、ヨーロッパでは男性が女性に花束やプレゼントを贈りレストランで食事をする、というのが一般的な過ごし方となっています。地域によって差があるのも面白いですね。

さて、そんなバレンタインデーを間近に控えて、クラシック音楽界の人たちはどのような恋愛をしていたのかに思いを馳せてみましょう。芸術家達には多くのドラマチックな恋愛譚があり、それが創作表現の源となることが多く、時には時代を変えてしまうほどの作品を作り出す力となることさえあります。今回は、そんな時代を変える力を持った6人の天才達による、3つの恋愛ドラマを紹介します。

天才同士の愛と音楽のつながり~ロベルト・シューマンとクララ・ヴィーク

クラシック音楽界のベストカップルといえば必ず名前が挙がるこの2人を見ていきましょう。ロベルト・シューマン(以下シューマン)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家ですが、若い頃は多才で、ピアニスト・作曲家・法律家・文学者としての才能を開花させました。そんな折、音楽教育者として高名なフリードリヒ・ヴィークの家に泊まり込みでレッスンを受けるようになります。シューマンはその数年後、フリードリヒ・ヴィークの娘であるクララ・ヴィーク(以下クララ)と恋仲になります。この時のエピソードとして、1833年、クララが14歳のときに書いた「ロマンス変奏曲」に、シューマン(当時23歳)が返答として同じメロディを用いて作曲した「即興曲」を返しています。交換日記のようでほほえましいエピソードではありますが、この2曲の完成度の高さは素晴らしく、まさに天才同士の交際であったといえます。

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クララは10代にして一流のピアニストとしてドイツ中を巡るような人でした。若い2人は、クララの父フリードリヒ・ヴィークの妨害もあって、一度は距離が離れます。しかしシューマンが贈り続けたピアノ曲をクララが演奏会で演奏するという形で関係は繋がり続けます。ヴィークとは和解が不可能になるほど関係は悪化しましたが、1840年に裁判の末結婚をすることができました。この時にシューマンがクララに献呈した作品が「ミルテの花」という連作歌曲集で、ドイツ歌曲の傑作として愛され続けています。これまで歌曲を避けてきたシューマンですが、この年に100曲以上の歌曲を書き上げます。これにより、1840年は「歌曲の年」と呼ばれるようになりました。

以降も、クララの天才的なピアノによってシューマンの作品を紹介するなど、2人の才能が助け合いながら存分に発揮されることとなります。

創作活動の原点となった逃避行~フランツ・リストとマリー・ダグー伯爵

当時(今もそうなのかもしれませんが)活躍するピアニストという存在はたいそうモテたようで、外見がそれほどでも無く服装も無頓着だったというベートーヴェンも女性関係はなかなか派手だったようです。そして、そのベートーヴェンへの憧れを抱いていたフランツ・リスト(以下リスト)も、圧倒的な技巧に加えて容姿端麗であり、熱狂的な女性ファンがたくさんいました。中にはリストが登場すると気絶してしまう女性もいたらしく、前項のクララでさえリストの演奏を聴いて号泣してしまったそうです。

リストはパリの文化人たちと積極的に交流し、なかなか派手な女性関係を持っていたそうです。そんなリストが長期間しっかりとした恋愛関係を結んだのが、6歳年上のマリー・ダグー伯爵夫人(ダグー伯爵の夫人という意味ですね。以下マリー)です。当時のパリの風潮として、不倫自体はそれほど珍しいものでもなかったものの、スキャンダルであることには変わりなく、1835年(リスト24歳の時)に2人はパリを脱出し、スイス・ジュネーヴへ逃避行をします。なお、マリーはダグー伯爵と同年離婚しています。

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パリでのキャリアを投げ打っての逃避行となったため、リストは1835年から1839年までは表立っての活動をあまり行っていません。ただし、この間に「巡礼の年」の「第1年:スイス」と「第2年:イタリア」を完成させています。この作品はリストの作曲人生の幕開けとなるもので、若々しいエネルギーに溢れながらも、詩的な情緒があり、大作曲家としての才能を開花させました。

また、この逃避行の最中にリストはマリーとの間に3人の子供をもうけています。このときに生まれた次女コージマは次項の主役です。しかしこれ以降マリーとはだんだんと不仲になっていきます。また、それにつれてリストの演奏活動も再開していき、1844年には完全に決別しました。

リストと決別した後のマリーはその後文豪としての才能を開花させ、男性名であるダニエル・ステルンとペンネームをつけ、パリの社交界で作家・ジャーナリストとして活躍を続けます。なお、作家として初めて出版した「ネリダ」という小説は、リストへの当てつけのような内容になっているのが面白いところです。

いずれにせよ、この熱烈な恋愛が2人の天才の創作活動の原点となったことは間違いないでしょう。

今日まで残る愛の形~コージマ・リストとリヒャルト・ワーグナー

前項のリストとマリーの間に生まれた次女コージマ・リスト(以下コージマ)は、1857年コージマが19歳のときに、指揮者ハンス・フォン・ビューロー(以下ビューロー)と結婚しました。ビューローは、クララの父、フリードリヒ・ヴィークの弟子であり、音楽界の狭さを感じますね。しかしこの結婚生活は長くは続きませんでした。コージマは1862年に49歳で既に名声を確立していたリヒャルト・ワーグナー(以下ワーグナー)と出会います。ワーグナーはロマン派オペラの頂点と呼ばれる存在であり、数多くの巨大な傑作オペラを生み出した大作曲家です。周囲の強い反対や25歳の年齢差もいとわず、すぐに2人は惹かれ合うようになり、1869年までに3児をもうけます。

この時になってようやくコージマはビューローと離婚することができ、1870年にワーグナーと結婚をしました。ワーグナーはこの年コージマに向けて、長男ジークフリートの名を冠した「ジークフリート牧歌」を捧げています。オペラが作品の多くを占めるワーグナーにとっての、純粋な楽器のみのための作品として多くの人に愛されています。

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ワーグナーは過激な思想と、唯我独尊的な発言で多くの敵を作り出していました。同時代の作曲家ブラームスとは犬猿の仲で、哲学者ニーチェとは一時期は意気投合していたものの決別してからは激しい非難を浴びせられていました。外部からの影響を受けずに自分の理想のオペラを上演するために、1876年にバイロイトの地にて、第1回バイロイト音楽祭を開催します。これは大失敗に終わり、赤字がひどく第2回は1882年まで開催されませんでした。

1883年にワーグナーがコージマとの旅行中に心臓発作で亡くなると、コージマは1日中亡くなったワーグナーを抱きかかえていたと言います。その後、コージマはワーグナーの形見ともいえるバイロイト音楽祭を引き継いで総指揮者となり1906年まで開催を続け、ワーグナーの作品と思想を熱心に普及させました。その後バイロイト音楽祭は息子のジークフリートに引き継がれ、21世紀の今日に至るまで開催され続けています。

ワーグナーとは決別したニーチェですが、コージマを「比類なき天性の持ち主であり、唯一認められる人物である」と評しています。

芸術家たちの激しい愛、新しい時代の音楽に

現代の価値観では必ずしも受け入れられるとは限らない話も多いのですが、音楽家・芸術家たちの周囲の視線や自分の人生すら顧みない強い恋愛感情が、今日まで残る形となって輝いていることがわかります。特に割り切れない思いや激しい感情は、既存の音楽表現にとらわれない衝撃的で斬新な発想を生み出し、そこから新しい時代の音楽が始まることもあります。曲を聴くときや演奏するときに、背景にある作曲家の思いを想像すると、よりその曲に親しみを覚えることができるかもしれません。(作曲家、即興演奏家・榎政則)

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 榎政則(えのき・まさのり) 作曲家、即興演奏家。麻布高校を卒業後、東京藝大作曲科を経てフランスに留学。パリ国立高等音楽院音楽書法科修士課程を卒業後、鍵盤即興科修士課程を首席で卒業。2016年よりパリの主要文化施設であるシネマテーク・フランセーズなどで無声映画の伴奏員を務める。現在は日本でフォニム・ミュージックのピアノ講座の講師を務めるほか、作曲家・即興演奏家として幅広く活動。

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