日本が誇る大手食品メーカーに激震!ミツカン「種馬事件」①実子誘拐の地獄|西牟田靖 「お前! 何者だと思ってるんだ、お前!! この場でサインをしなければ、片道切符で日本の配送センターに飛ばす」「中埜家に日本国憲法は関係ない」。日本が誇る大手食品メーカーが、婿に対してとんでもない人権侵害を行っていた――。2022年8月号に掲載され、大反響を呼んだ記事を特別無料公開!

父子引き離しという地獄

2022年1月13日(木曜日)、東京地裁の709号法廷(定員42人)は満席だった。原告の男性が立ち上がり、用意した文書を読み上げ始めた。

「ミツカンと創業家によって、組織ぐるみで息子と引き離され、3年間生き別れております。息子がどこにいるのかわからず、生きているのかすらわかりません」

「美和副会長は『あれは家と会社から追い出したほうがいい』と打ち合わせていました。また、和英会長は『片道切符で日本の配送センターへ飛ばせ』という趣旨の指示を部下に出していました。さらに、ミツカンの顧問弁護士らは、“親子引離し”の目的で、『会社として大輔を日本へ異動させる』ことをミツカンに助言していました」

「(打ち合わせの議事録には)、そこに座っておられる、森・濱田松本法律事務所の奥山健志弁護士・大野志保弁護士の名前が明記されています。今後、尋問の機会が頂けるのであれば、彼らに、『なぜ人事権を使って親子を引き離すようミツカンに助言したのか?』、直接お聞きしたいと思います」

名指しされたことに驚きうろたえたのか。被告人席の向かって左端の弁護士はメモの手を止め、一瞬、鬱陶しそうな表情をした。そして、何事もなかったように無表情な顔つきに戻し、視線を落として再びメモを取り始めた。

原告男性の名は中埜大輔さん。

2013年、大輔さんはミツカンホールディングス(以下ミツカン)会長の次女、聖子さんと結婚する。結婚を機会に婿入りし、ミツカンに入社。翌14年8月には男の子が誕生した。そのときの思いを、大輔さんはブログに次のように書いている。

「とにかく、僕は、妻が無事で、赤ちゃんも元気いっぱいでいてくれたことに、ホッとして、同時に、これまで味わったことのない幸福感を感じました。(ああ、僕も父親になったんだなあ。よし、家族は僕が守るんだ!)」

大輔さんは1980年、東京都生まれ。慶應義塾大学商学部を卒業したあと、金融業界を歩んだ。大手証券会社に就職したあと2008年に転職し、香港に移住。スイスの大手銀行でバンカーとしてのキャリアを重ねていった。

転機となったのは2012年5月。当時、勤務していた銀行の上司から見合いの話を持ち掛けられた。相手はミツカンの中埜和英会長(8代目)の次女、聖子さん(当時、ミツカン専務)だった。

ミツカンの創業は1804年。その歴史は、造り酒屋だったミツカンの初代・中野又左衛門(4代目から中埜に改姓)が、江戸の〝すし〟に目をつけ、酒粕を利用した〝粕酢〟造りに挑戦したことから始まる。

食酢、ぽん酢の国内シェアは約6割にものぼり、グループの売上高は2400億円超。その半数が北米をはじめとする海外での売上だ。聖子さんはその跡継ぎと目され、婿選びのため社内にプロジェクトチームが作られた。探し出した相手が大輔さんだったのだ。

「ミツカンの創業家一族である中埜家。その莫大な資産をいかにして引き継いでいくか。そのための候補としての第1条件、それは“海外に強い人”だったのでしょう。だから、香港でプライベート・バンカーをしていた私が候補として選ばれたのだと思います」

事業承継を含めた代々の資産を引き継ぐというファミリー企業向けの仕事を手がけていた大輔さんは、まさにうってつけの相手だったのだ。

「上司の顔を立てることができれば幸いだと思い、断る理由は何もありませんので、お受けしました」

結婚で提示された3条件

夫婦の仲を切り裂き、息子を奪った会長夫妻

見合いは香港の有名な中華料理店で行われた。その場には聖子さんの他、両親である和英氏・美和氏、さらには番頭格のH専務がやってきた。大輔さん側は彼と上司A氏、仲人としてミツカンとA氏とがっていたB氏が同席した。

彼女の第一印象を大輔さんは次のように振り返る。
「聖子さんは白いパンツスーツにショートカット姿で、色白なかわいらしい女性でした。緊張していたのか、あるいは早くもNGと思ったのか、笑顔はありませんでした」

会話は終始穏やかだった。旅行の話や香港の話、これまで食べた珍しい食べ物などが話題になり、相手方から根掘り葉掘り訊かれることがないまま、会食は終了した。大輔さんは「これで上司の顔を立てることができた」と安堵し、結果については期待していなかった。

ところが、その日のうちに上司からかかってきた電話の内容は、予想外のものだった。
「やったな。1次試験を突破したぞ。明日のランチはお前とお嬢さんの2人だけだ。よろしくな!!」

翌日、香港でデートとなった。2人の会話は盛り上がり、意気投合した。その後も中埜家側は乗り気で、結婚が既定路線となっていく。跡継ぎと目されている女性との結婚だけに、中埜家からは、
・キャリアを捨てミツカンに入社すること
・元々の苗字を捨て中埜の姓になること
という2点が提示された。

さらに次の条件も提示され、こちらには承諾のサインを求められた。
「申立人については、近い将来、中埜家がオーナーとして経営するミツカングループの役員として、十分な報酬が約束されています。従って、申立人の妻である中埜聖子に対する遺留分の放棄を申請いたします」

財産の遺留分放棄とは、配偶者が死亡した場合に財産を受け取れる権利の放棄である。聖子さんとともに築いていく未来に目が向いていたため、大輔さんはその条件も自然な流れとして受け入れる。

「彼女がミツカンの後継者であることについては、『とても大きな荷物を背負っている』と思いましたね。『1人で背負うのは大変だから、2人で背負って次世代に引き継ぐまで一緒に頑張ろう』と。彼女にはそう伝えました」

相次いで落とされる雷

大輔さんは結婚を機に、ミツカンに一般職として入社する。役員としての将来が約束されていた彼の配属は社長室。得意先への挨拶回りや工場研修のため、全国の工場や営業拠点を回るという特別なプログラムが組まれ、日本各地を過密スケジュールで目まぐるしく回っていった。

「当時、僕はミツカンの仕事を覚えようと必死でした。先輩方から熱い指導を受けましたし、同時に、婿さんはどんな人だろう? という、これもある意味で熱い視線も受けました。宿泊していたビジネスホテルに帰ると、文字どおりクタクタでした」

週末になると、やっと義父母や聖子さんの住む自宅(愛知県半田市)に帰ることができた。しかし、それはそれで気が休まらなかった。

「自宅の広い敷地内には、庭師とか資産管理もろもろを担当する数十人の社員さんやお手伝いさん、警備の方がいらっしゃって、皆さんの目が常にあるんです。しかも、和英氏や美和氏の目がありましたから。ある意味では、職場よりはるかに緊張感がありました」

ミツカンに入社した大輔さんの身には不穏なことが相次いだ。

結婚式の2週間前から、彼はミツカンで働き始めた。その間、社員寮で過ごすことになったが、布団がない。すると、「うちにあるから持って行きなよ」と聖子さんが申し出た。厚意に甘えたところ、義母となる美和氏が烈火のごとく怒り出した。

「婿入りするのに、道具すらもってこない酷いヤツだ」

美和氏は香川県の造り酒屋「西野金陵」出身であり、西野家も江戸時代から家業を守ってきた家柄。美和氏は大輔さんに対して特に厳しかったという。

結婚後も、大輔さんの受難は続いた。というか、むしろエスカレートしていく。引き継ぎで、お手伝いさんにトイレ掃除のやり方を実践してもらったときに起こった出来事もそのひとつ。

「無理やりトイレ掃除をさせられるという辱めを受けた。もう辞めたい」と言っているという悪意の報告がなされ、和英氏・美和氏が激怒。大輔さんはそのお手伝いさんに菓子折を持参し、土下座して詫び、事態をおさめている。

その他、挨拶回りの営業車の席順で揉めたり、大輔さんの敬称を呼び捨てにするか〝さん〟づけにするかで揉めたりして、その都度、和英氏や美和氏が激怒し、一騒動となった。

どこに行っても休まらない環境に加え、どこに行っても浴びてしまう注目。和英氏・美和氏から相次いで落とされる雷。大輔さんは心身ともに追いつめられていった。だがそんななか、一筋の光が差し込む――。

男の子を無事に出産したが

2013年12月に、聖子さんの妊娠が判明。3月に名古屋某病院の産婦人科でエコー検査を受け、子どもが男の子だということがわかった。そんな折、大輔さん夫妻を英国支店へ配転するという命令が下った。

それから数カ月後、まもなく渡英という時期になったとき、大輔さんは和英氏から呼び出され、真の目的を告げられる。

「英国で1年間の育休を取って、その間に他の仕事を探してくること!」

大輔さんは耳を疑った。ミツカンを辞めろという話がなぜ出てくるのか。完全に理解不能だった。
そのとき、彼は思った。

「僕は何のためにミツカンに入社したんだ? 辞めさせるつもりなら、最初から入社させなければいいのに……」

内心ではそんなことを考えていたが言えるはずもなく、大輔さんは黙っていた。すると、和英氏はさらにまくし立ててきた。
「お前、仕事を探してこいって!!」

大輔さんは混乱していて、何も言えなかった。
すると、追い打ちをかけるように和英氏は言った。

「中埜産業(中埜家の資産管理会社)の金庫で預かっておくから、渡英するまでに実印を作って渡すように」

実印の用途を詮索する余地などなかった。大輔さんは実印を作り、中埜産業に渡したのだった。

2014年6月、大輔さんは身重の聖子さんをともなって、イギリスに渡った。あらかじめ中埜家がロンドンの高級住宅地に購入し用意していた家に住み始めた。

生活は贅を尽くすという感じではなかった。両親の方針で、聖子さんは自身の貯金から給与に至るまで一切のお金を使えなくされていたため、生活費は一般職である大輔さんの給与ですべてやりくりした。さらに、その給与の使いみちにしても和英氏・美和氏への報告が課せられており、渡英後は1ペンスに至るまで大輔さんが家計簿をつけ定期的に報告をしていた。

異国での出産・生活ということからくる緊張はあったものの、間もなく息子が産まれてくるということへの希望を2人は共有していた。

育児休暇は聖子さんの出産後に始まるため、それまでの間、大輔さんは英国支店で勤務している。彼ら夫婦が渡英する2年前、ミツカンは英国の食酢、ピクルスの有力ブランドと生産設備を買収、欧州での展開を本格化させようとしていた。それもあって、彼のもとには翻訳すべき書類がたくさんあり、チームでの翻訳作業に忙しい日々を過ごしている。

8月末、聖子さんは無事に男の子を出産。イギリスでは当日の退院が一般的なため、大輔さん、聖子さん、産まれたばかりの息子は産後ケア施設に移った。

年表①
年表②

養子にすることを強要!

だが、その直後、運命は風雲急を告げる。和英氏・美和氏がロンドンにやって来ることになったのだ。大輔さんは驚きつつも、前向きに捉えることにした。

「この出産をきっかけに、ファミリーが一体となれるかもしれない」

ところが、そうした淡い期待は無残にも踏みにじられてしまうことになった。
息子が生まれて4日後、K常務を従えて産後ケア施設に現れた和英氏・美和氏。2人は孫の顔を見るのもそこそこに、書類を広げ、大輔さんに迫った。

「産まれてきた子どものことだけど、先ずはこの書類にサインをしろ」

書類は「養子縁組届出書」。養父母の欄には、和英氏と美和氏の名前がすでに記されていた。つまり、生後間もない息子を祖父母である和英氏・美和氏の養子にすることを、大輔さん・聖子さんに強要したのだ。

大輔さんは面食らった。それでも、覚悟も決めてこう言った。
「妻はまだ出産直後で、いわば病み上がりです。あまりに突然のことですし、夫婦でしっかり話し合わなければなりません。この書類は一旦預からせていただけませんでしょうか」

少しの沈黙のあと、産後ケア施設の一室に和英氏の怒声が響き渡った。
「お前! 何者だと思ってるんだ、お前!! この場でサインをしなければ、片道切符で日本の配送センターに飛ばす」
「中埜家に日本国憲法は関係ない」

聖子さんは強く動揺し、取り乱して、両親に謝罪を始めた。
「すみません。すみません。私はサインをしますので、許してください」
そして、その場でサインをしてしまった。

和英氏は「謙虚」という言葉の意味を大輔さんに音読させ、さらにたたみ掛けた。

「お前、謙虚にすると言ってなかったか? 俺は、聖子の資産を全て取り上げて、無一文にして放り出すこともできるんだぞ? なぜ、私たちがわざわざロンドンまで来たと思っているのか? (養子縁組届出書は)大輔を追い出すための書類じゃないんだから、サインするよな?」

父として息子にできること

なおも迫る和英氏に対し、大輔さんは引き下がらなかった。
「夫婦で話し合う必要があるので、この場でのサインは勘弁していただきたい」と繰り返し伝え、ひとまず引き取ってもらったのだ。

和英氏・美和氏らが出ていったあと、聖子さんは施設の廊下で泣き崩れた。大輔さんも大きなショックを受けた。渡英前、大輔さんは実印を言われるまま渡していた。2人が届出書にサインをし、それを和英氏・美和氏に送り届ければ、あとはもうどうすることもできない――。

その日の夜、2人は今後のことを話し合った。
「家族3人で幸せに暮らすことが一番大切。義父母に服従したり、ミツカンの仕事に執着したりする必要はないと思う」

そういって、大輔さんは聖子さんに家を出ることを提案した。届出書を和英氏・美和氏に渡すのを拒絶し、その代わり、無一文になってでも一家で家を去ろうと。

しかし、両親にひどく怯えている聖子さんに、その言葉は受け入れられなかった。美和氏から脅迫メールを送りつけられていたのだ。

「(命令に従わなければ)殴られるくらいじゃ済まされない。別れるのが絶対条件」

子どもを産んで5日目の実の娘に、美和氏は容赦のない言葉を投げつけた。離婚だけは回避したいという聖子さんは、泣きながら懇願した。

「両親は大輔さんを家から追い出すつもりはない。私が(両親と大輔さんの)間に入って家族を守る。お願いだから、養子縁組の書類を両親に提出してほしい」

妻子を守るために選択の余地などないと観念した大輔さんは、届出書にサインし、義父母の滞在するホテルに書類を送り届けた。

出産から約1週間後、親子3人で産後ケア施設からロンドンの自宅へ戻ると、大輔さんは家族が増えて3人になったことを改めて実感する。

「赤ちゃんの存在感は特別で、家のなかがさらにパッと明るくなったようでした。育児グッズも一気に増えて、子育て中心の生活に様変わりです。同時に、僕たち夫婦はこれまでにも増して一体感が生まれ、絆が深まったようでした」

産まれたばかりの息子を奪いにきた義父母の行為に、大輔さんはショックを受け、気落ちしたが、それでも彼は前を向き、やれることをしっかりやって生きることにした。可能な限り、父としてできることはしよう――。

大輔さんは腹をくくった。そして「3つのルール」を作った。
・息子に愛情を注ぐ。
・“育児ノート”を作成して息子の記録を毎日残す。
・お風呂は毎日僕が入れる。息子と裸の付き合いをする。
というものであった。

そして、息子と引き離されるまでの1年あまり(日本に一時帰国したとき以外の時期)、毎日欠かさずこれを実行したのであった。平和でゆったりとした幸せな時間を3人は過ごしていた。しかし、それは束の間の幸せであった。

離婚が絶対条件との脅し

大輔さんは毎日、子育てをしながら、今後どうすればいいのか、どうすれば妻子を守れるのか、必死に考え続けた。そして、彼は重大な決断を下した。

それは、日本に一時帰国し、「養子縁組届へのサインを躊躇したことへの謝罪、そしてミツカンの退職を伝え、その代わり、家族だけは守らせてください」と、和英氏・美和氏に直訴することであった。大輔さん自身、責められる落ち度はなかった。しかし、謝ることで家族が守れるならそれでいいと思ったのだ。

2014年12月15日、ロンドンから日本に帰国。ミツカンが本社を置く愛知県半田市に単身、出向いたのだ。面会場所に指定された会議室で大輔さんは美和氏と会い、そして詫びた。
「いままですみませんでした」

しかし、取り付く島がなかった。逆にこれまでの怒りをまくし立てられ、義母との面談は終了。大輔さんはそのまま会議室に残り、和英氏との面談を待った。30分ほど会議室で待機していたところ……和英氏が部下を従えて登場した。

会議は一方的な内容になった。
「ミツカンには、私はいるなとは言わないけど、お前(仕事)探してこいって」
「イギリスに行って仕事をするな、と俺は言ったのに、仕事をしてたろ! お前!」
「ロンドンの家にお前がいるということは、絶対もうこれから許さない!」

このような苛烈な罵声を浴びせられた。これは要するに……孫の親権はすでに奪ったので、大輔は用済みである。妻子を置いて、家と会社から出ていけ! と命じられたに等しかった。そして、このまま一方的な形で面談は終了した。

「大輔は種馬」だった……

イギリスの自宅に帰ったあと、詳細を報告した大輔さんに対し、聖子さんは慌てた様子で言った。
「『離婚が絶対条件』との脅しに従ったように見せる必要がある。偽装別居(さらに踏み込んで偽装離婚)をするしかない」

「あまりにもリスクが大きすぎる。家族なのに、なぜ隠れて会わなければならないのか?」
大輔さんの目には“問題の先送り”にしか見えず、賛成できなかった。

他方、これに合わせ、聖子さんは次のように提案をした
・家族がいつ引き離されてしまっても連絡を取り合えるように、
・将来の息子に、両親から愛されて育ったという事実を残してあげるために、
・“子育て日記”ブログを残す。
大輔さんは賛成した。

ブログのタイトルは、聖子さんの案で【Secret Family】と決まった。“秘密の家族”との意味のほかに、「何があっても息子と家族は守る」という強い思いを夫婦で込めたのだ。

大輔さんが和英氏・美和氏に会ってから4日後の12月19日、事態はさらに深刻になった。午前9時、ロンドンの自宅に和英氏・美和氏らがやって来て、大輔さん抜きで密談をしたのだ。大輔さんはのちのことを考えて、聖子さんにも内緒でマイクを仕込んでいた。

訪れた和英氏・美和氏は、とんでもないことを打ち合わせていた。
「(大輔は)種馬」
「子どもさえ産まれれば、仕事は終わり」

そして、和英氏は次のように部下に指示をした。
「(大輔を)片道切符で配送センターか工場に」

かつて和英氏・美和氏とK常務は、大輔さんに「養子縁組書類は(大輔を)追い出すための書類ではない。税金対策の書類だ」と説明していた。しかし、この言葉の真意が明らかになる。

「いまの状態は大輔君が○○君(息子)の親権をまだ持った状態のままでございますので、ここで離婚の調停ということに入っていきますと、非常にややこしい話になる可能性が高いと思います」とK常務。続けて、
「最初に決めるべきは養子(縁組)の手続きをする、しないということをご判断いただく」
「うん、すぐ(養子縁組届を役所に提出)する」と和英氏。

別室で発言を聞いていた大輔さんは、愕然とした。
「義父母は最初から“騙す”つもりでサインを強要していたのか……」

「偽装別居」を開始した

耐えがたい現実を突きつけられた大輔さんは、和英氏・美和氏らが家から去ったあと、すぐに行動に出た。以前、入手し、書き込んでいた「養子縁組不受理届」を取り出して握りしめ、文字どおり全速力で日本大使館へと走ったのだ。十数分後、大使館に駆け込んだ大輔さんは息を切らせながら、受付で言った。

「いままさに、日本側で手続きがされており、息子と引き離されそうなんです。急いで、この『不受理届』を申請したいのですが……」

ただならぬ雰囲気の大輔さんに、大使館員は不受理届の申請の方法を懇切丁寧に説明し、書類を受理した。数日後、ミツカン本社のお膝元である半田市役所から、不受理届の受理を告げる電話がロンドンの自宅にかかってきた。

「『不受理届』が正式に受理されました。今後、息子さんが養子になることはありません。(和英氏から)養子縁組届出書はまだ提出されていませんでした」

電話を受けたとき、大輔さんはちょうど生後4カ月の息子をエルゴ(抱っこひも)で抱えていた。息子はスヤスヤと幸せそうに大輔さんの胸で寝息を立てていた。
「息子よ。パパは頑張ったぞ」

そう言って、大輔さんは息子のおでこにキスをした。何も知らぬ息子は、相変わらず幸せそうな寝顔でムニャムニャとしていた。

ひとまず、大輔さんは安心した。しかし、問題はこれからだった。不受理届に気がついた和英氏・美和氏が激怒し、徹底的な報復をしてくることは火を見るより明らかだったからである。

水面下でミツカンの顧問弁護士と謀議を重ねた和英氏・美和氏は、ついに強硬手段に出る。聖子さんに対して、2015年8月18日に別居を開始するよう強要したのだ。大輔さんの誕生日が翌日の19日であるため、踏み絵を踏ませたのだろう。

聖子さんは18日から別居を開始したと両親に報告したが、実際は家族3人で大輔さんの誕生日(19日)を祝ったあと、20日から「偽装別居」を開始した。

その後も、家族3人は和英氏・美和氏に秘して、毎日のように夕食を食べ、家族団欒を続けた。しかし、この生活も長くは続かなかった。同年10月、ついに大阪の配送センターへの出向が命じられたのだ。

11月7日、大輔さんは妻子をロンドンに残し、後ろ髪を引かれる思いで日本へ帰国した。この理不尽な出向命令に対し、大輔さんはミツカンを相手取って裁判を起こす。それは、人事権を濫用する計画(大輔さんをロンドン支店から大阪の物流センターへ飛ばす計画)を立て、実際に計画どおりの出向を行ったことに対して仮処分を求めるものであった。

1年間、自宅待機

しかしミツカンは、「英国の拠点は廃止した。だから戻すところはない」とありもしないをつき、1年間、彼をどこにも配属させなかった。大輔さんは1年もの間、自宅待機を強いられたのだ。

「地獄の日々でした。配送センター付近は畑の多い地域で、お店が近くにない。家族に会えないストレスを紛らわすため、1時間半ぐらいかけて大阪の中心部まで出て、ジムに行ってご飯を食べて帰ってきたり、船舶免許の1級や簿記の資格をとったりして、何とか気を紛らわせていましたね」

しかし、この頃から夫婦の歯車は少しずつ狂い始める。

以下は、先の裁判で聖子さんが提出した陳述書だ。
《私と大輔さんが別居を開始して以降、大輔さんが日本に帰国するまでに大輔さんが○○(息子)との面会を申し入れたのは、2回だけでした。1回は私が出張のため都合がつかなかったため、実際に会ったのは1回だけです》

実際には、家族3人は毎日のようにともに過ごしていた。和英氏・美和氏の苛烈な圧力から逃れるための偽装別居だったからだ。

聖子さんの虚偽の陳述書を見た大輔さんはLINEで、
「これはやりすぎだよ」
「親にいい顔をし過ぎです」
とやんわりと抗議。最初のうちは聖子さんから「ごめんね」と返信があったが、その後、「忙しい」という理由から、徐々に大輔さんと息子の距離を置くようになった。

これを最後に音信不通に……

家族3人で会った最後の日

大輔さんを最も苦しめたのは、仮処分に勝訴した翌月の2016年4月、聖子さんが離婚調停(その後の離婚訴訟を含む)を起こしてきたことだ。

聖子さんは「裁判で偽装別居の話は死んでも言わないでね」と言っていた。それを忠実に守っていた大輔さんは、離婚訴訟でどんどん不利になっていく……。

「両親に怯えていた彼女は裁判で虚偽の主張をし、私には『反論しないでね』と要求。この頃、ミツカンの顧問弁護士から『離婚調停中であるため、息子の写真を見せる予定はない。息子に会わせる予定もない』との妻名義の文面も届きました。義父母の圧力によるもので彼女の本心ではないことは頭ではわかっていましたが、私への要求ばかりで、息子に一切会わせないし、どうなってるのっていう話になって……二枚舌ではないかと。だんだん感情が抑えられなくなっていったんです」

2016年8月19日、大輔さんの誕生日に聖子さんは、
「仲良し家族 大好き」
というメッセージとともに、家族3人の写真を【Secret Family】に投稿した。だが、この投稿を最後に音信不通になった。

「彼女はミツカンの代表取締役。家族を引き離して敗訴した側の代表者でありながら、裏では偽装別居で家族を守っているという矛盾した立ち位置。両親と息子と会社を取るか、それとも私を取るかですから、もとより勝ち目は薄かった。彼女は次第に、破壊行為を繰り返す和英氏・美和氏を擁護する側へと落ちていったんです」

2019年6月、最高裁への上告が棄却され、大輔さんは離婚裁判で敗訴した。

大輔さんは、実は2016年1月18日から23日までの間、秘かにロンドンの自宅を訪れて家族3人の時間を過ごしている。当時の日記には、3カ月ぶりに再会した1歳半の息子が満面の笑みでトコトコと駆け寄ってきてくれたことに感動した様子が記されている。

英国での最後の日、大輔さんがヒースロー国際空港行きのタクシーに乗り込む直前に、聖子さんは涙を流しながら言った。
「会えるのはこれが最後になるかも。少なくともあと1年ぐらいは……」

この日が、家族3人で会った最後の日となった。

マスコミの取材を受け解雇

2017年3月、大阪での自宅待機が1年を過ぎる頃、突如として配属先が東京支社と決まり、大輔さんは再び働き始めた。労働組合を通じた団体交渉や企業倫理室への内部通報、さらには取締役を含む幹部14名全員への直訴といった手段によって問題の解決を目指すも、効果はなかった。

そんななか、情報をキャッチした『週刊文春』が大輔さんに接近、取材を依頼してきた。

彼は悩んだ末に取材を受け、2019年5月、「ミツカン『酸っぱいお家騒動』」と題する記事が掲載された。ついで、テレビのワイドショーの取材が相次いだ。しかし、それを重く見たミツカンは、同年8月、大輔さんを即日解雇してしまったのだ。

「フジテレビの報道は公平な視点とは言えず、むしろミツカンに大きく肩入れした内容でした。ミツカンはフジテレビのスポンサーですから、偏向するのもある意味、仕方のないことかもしれません……。マスコミの取材を受けたのは、ミツカンの反社会的、非人道的な行為を内部に対して4回も通報したにもかかわらず、すべて無視されたからです。解雇が不当であることは明らかであり、私はいまもミツカンを相手取り係争中です」

プロジェクトチームを作ってまで選び、そして迎えた大輔さんに対し、和英氏・美和氏はなぜここまで酷い仕打ちをしたのだろうか。彼らがした行為は、大輔さんや聖子さんへの人権侵害だけではない。孫である男の子から実の親を奪うという児童虐待でもあるのだ――。

(初出:月刊『Hanada』2022年8月号)

ミツカン「種馬事件」②家族破壊工作の全貌|西牟田靖【2022年9月号】ミツカン「種馬事件」③中埜会長の急死と裁判で暴かれた真実|西牟田靖【2022年12月号】

著者略歴

西牟田靖

© 株式会社飛鳥新社