「空の女王」ジャンボ機生産が半世紀で幕 大量輸送の立役者が挑む「次章」とは

 米ワシントン州で開かれた式典で展示されたボーイングのジャンボ機(AP=共同)=1月31日

 前方が2階建てとなり優美な外観で「空の女王」と親しまれてきた米航空機大手ボーイングのジャンボ機「747」の生産が、半世紀余りで幕を下ろした。1574機目となる最後の機体は貨物専用機で、1月31日に米航空貨物大手のアトラス航空へ引き渡された。脱炭素化が進む中で燃費性能が劣ることから近年は需要が低迷したものの、持ち味の大量輸送で航空運賃の下落をもたらして空の旅を身近にした功績は大きい。日本航空(JAL)が世界の航空会社で最も多い累計110機超を導入するなど日本とも関係が深かった。(共同通信=大塚圭一郎)

 ▽ゾウの名前に由来
 1967年に製造が始まったジャンボ機の愛称は、19世紀にイギリスの首都ロンドンの動物園で飼われていた著名なゾウ「ジャンボ」に由来する。客室に500を超える座席を設置でき、通路が2本ある機体は世界初だった。主翼の下に付いているジェットエンジンは4基と、現在主流の航空機の2倍だ。

 ジャンボ機を初めて営業運航したのは米パン・アメリカン航空(1991年に破産)で、1970年1月にニューヨークからロンドンまで飛んだ。日航は同じ年の7月に羽田から米ハワイ・ホノルルへ向かう便を手始めに運航。全日本空輸(ANA)も1979年1月に羽田―札幌(新千歳空港)線と羽田―福岡線で就航し、主要国内線と国際線で積極的に活用した。

 日本大の矢嶋敏朗准教授(観光学)は「JTBや日本旅行といった大手旅行会社が1970年代以降、海外旅行を中心に急拡大したのはジャンボ機による大量輸送の副産物だったのは間違いない。団体やパッケージ旅行の航空運賃が下落し、ハワイをはじめとする海外旅行が身近になった」と指摘する。

 羽田空港に初お目見えした日本航空のジャンボ機=1970年6月1日(共同通信社刊「ザ・クロニクル 戦後日本の70年」第6巻より)

 ▽日航が世界で最多の運航
 ボーイングは1月31日、米西部ワシントン州の工場で最後の機体を納入する記念式典を開いた。民間航空機部門のスタン・ディール最高経営責任者(CEO)は「(ジャンボ機は大量輸送で)世界を小さくし、旅行と航空貨物に革命を起こした」と述べ、ジャンボ機が格別の存在だったことを強調した。

 「最も多くのジャンボ機を運航した」と紹介された日航の赤坂祐二社長も登壇。一緒に舞台に上がった元ボーイング民間航空機部門上席副社長のキャロリン・コルビさんは「私が初めて訪日したのもニューヨークから成田空港への日航のジャンボ機で、到着すると誘導路、滑走路、空港の搭乗口といたるところにジャンボ機が止まっていた。その多くは日航の鶴丸のロゴを付けていた」と振り返り、「ボーイングがこの変革をもたらした航空機を設計し、世界中に展開するのを手助けしたのは日航だった」と謝意を述べた。

 日本の2社がジャンボ機を重宝したのは1970年代以降の航空需要の拡大と、首都圏空港の発着枠の制約がきつかったという事情がある。羽田が慢性的な混雑空港だったのに加え、1978年に開業した成田は2002年まで1本の滑走路しかなかった。多くの航空利用者を運ぶために、座席数が多いジャンボ機が八面六臂の活躍をした。

 米航空機大手ボーイングの式典で関係者から紹介される日本航空の赤坂祐二社長(左)=1月31日、ワシントン州(中継動画より・共同)

 ▽日本最悪の単独航空機事故も
 コルビさんはボーイングと日航が「苦難の時も連携した」とも指摘したが、筆者は「苦難」が指すのは日航ジャンボ機墜落事故だろうと推察した。1985年8月12日に羽田発大阪(伊丹空港)行きのJAL123便のジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹山に墜落して乗客と乗員合わせて520人が犠牲となった。日本で最悪の単独航空機事故は「空の安全」の整備が急務との警鐘を鳴らした。

 事故機はコックピットにパイロット2人と、エンジンや燃料系統などを点検する航空機関士の計3人が乗り込む通称「クラシックジャンボ」だった。
 それが1989年に生産が始まり、「ハイテクジャンボ」と呼ばれた747―400型になると、パイロット2人だけで運航できるようになった。コックピットには計器類を画面に表示する「グラスコックピット」を導入し、主翼の先端には燃費性能を改善する「ウイングレット」を取り付けた。

 2009年から生産された最終モデル747―8型は全長を5・6メートル延ばして76・2メートルとし、運航中の民間航空機で最長となった。貨物機の最大積載量は130トンを超え、ゴルフボールならば約190万個運べる。
 筆者が2016年8月にボーイングのワシントン州の工場を見学した際は、大韓航空(韓国)向けの747―8型貨物機が組み立てられており、まるでビルの建設現場のようなスケール感に圧倒された。

 ▽“高嶺の花”の2階席は…
 ジャンボ機は多くの子どもが憧れる機体で、特に2階席は“高嶺の花”だった。太平洋路線でライバルのパン・アメリカン航空に対抗しようと、日航は1978年、「ジャンボ機に寝室を作りました。」と銘打って座席が平らなベッドになる「スカイスリーパー」を設けた。
 今では座席が平らになるフルフラットシートは長距離国際線のビジネスクラスでも一般化しているが、当時はファーストクラス利用者が追加料金を支払えば利用できるというVIPに限られた空間だった。

 筆者が初めて日航ジャンボ機の2階に乗り込んだのは2008年、成田から中国・上海へ向かった時だった。座席の前後間隔が広いため背もたれを大きく倒し、ドーム状の天井を仰ぎ見るのは極めて快適だった。

 ▽代わりに中型機の787が台頭
 花形のジャンボ機だったが、日航は2011年3月で全て引退させた。2010年1月に会社更生法の適用を申請して経営破綻し、再建策として燃費性能が優れた小・中型機に置きかえる「小型多頻度化」の戦略がジャンボ機に引導を渡した。
 全日空からも2014年3月で全てのジャンボ機が退役し、日本の航空会社からジャンボ旅客機は姿を消した。

 米航空大手もジャンボ旅客機から手を引き、今も健在なのはドイツのルフトハンザ航空や大韓航空などに限られる。
 二酸化炭素(CO2)の排出量が多い航空業界に脱炭素化を求める機運が高まる中で、ジャンボ機は1キロ飛ぶのにジェット燃料を12リットル消費するのが弱点となった。

 ジャンボ旅客機は航空需要が好調ならば一度に大勢の利用者を運べる利点があるが、「定員が多いため航空券を売るのが大変で、需要低迷期は行き場がなくなる」(航空大手幹部)のがあだとなった。新型コロナウイルス流行も逆風となり、2024年までに順次引退させる計画だった英ブリティッシュ・エアウェイズは2020年に全て退役させた。

 関係者が横断幕を掲げる中、最終フライトを待つ全日空のジャンボ機=2014年3月、那覇空港

 そんなジャンボ機に代わって台頭した代表格が中型機のボーイング787だ。座席数が比較的少ないため高い搭乗率を維持しやすく、燃費性能も優れる。
 従来の国際線はジャンボ機のような大型機がハブ(拠点)空港同士を結び、ハブ空港で小型機に乗り継いで目的地に向かう「ハブ・アンド・スポーク」型が中心だった。

 しかし、787の登場によって都市間を直接結ぶ「ポイント・トゥ・ポイント」型が急速に広がった。2011年11月に世界で初めて787を就航させた全日空は、2012年に成田―米西部サンノゼ線と成田―米西部シアトル線を開設。日航も2012年に成田―米西部サンディエゴ線と成田―米東部ボストン線を就航させた。

 ボーイングの2022年12月期決算は最終的なもうけを示す純損益が50億5300万ドル(約6600億円)の赤字だった。コロナ禍もあって4年連続の赤字となり、業績の低空飛行を背景にした事業の選択と集中もジャンボ機の生産撤退を後押しした。

 全日空で50機目となるボーイング787=2016年8月、米ワシントン州

 ▽巨体生かし貨物機として活躍
 最後に納入されたのが747―8型のジャンボ貨物機だったように、経済のグローバル化で旺盛な物流需要に対応でき、多くの荷物を一度に運べる貨物機は世界の物流を息長く担うことになりそうだ。日本郵船の子会社、日本貨物航空もジャンボ貨物機を8機保有し、成田を発着する貨物輸送などで活用している。

 最後の機体を受け取ったアトラスは、ジョン・ディートリッヒ社長兼CEOが「当社の歴史と成功は747シリーズと直結する」と強調したようにジャンボ機との縁が深い。1992年の設立当初はジャンボ貨物機1機でスタートし、現時点で世界最多となる56機のジャンボ機を運航するまでに業容を広げた。

 ディートリッヒ氏はジャンボ機の巨体を生かしてレーシングカーや競走馬、ロケットの部品、人工衛星、機械類、医薬品など幅広い荷物を世界に届けてきたことに胸を張り、1月31日の式典でこう強調した。

 「本日は力強い『空の女王』がけん引するわくわくする次章の幕開けだ」
 これまでの累計飛行時間が1億1800万時間を超えるという「空の女王」はこれからも世界中の大空を羽ばたき、世界経済の縁の下の力持ちとして活躍を続けそうだ。

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