海に沈んだクジラの「淀ちゃん」 博物館が残念がる、骨格標本にできなかった理由 大阪市の処理作業ににじんだ「配慮」

死んでいることが確認されたクジラ、SNSで「淀ちゃん」と名前が付けられた=1月13日、大阪市

 いつの時代も、耳目を引くニュースの鉄板ネタは「動物」だ。上野動物園(東京)のジャイアントパンダは、昭和の「ランラン」から令和の「シャンシャン」まで多くのファンを魅了し続ける。「悩む」姿で有名になった徳山動物園(山口)のマレーグマ「ツヨシ」や、多摩川に出没して一大フィーバーを巻き起こしたアゴヒゲアザラシ「タマちゃん」を記憶する人も多いだろう。
 大阪でこの1月、外洋から突如として巨大なクジラが現れ、鉄板ネタの系譜に新たな1ページが加わった。淀川河口に迷い込んだ「淀ちゃん」だ。交流サイト(SNS)上で名付けられ、瞬く間に話題をさらった。テレビ各局はヘリコプターを飛ばし、豪快に潮を吹くところから徐々に弱って力尽きるまでを連日報じた。テレビに出演した専門家は、口をそろえて死骸を「骨格標本にしてほしい」と訴えたが、大阪市は沖合に運んでの「海洋投棄」を選んだ。なぜ淀ちゃんを骨格標本にしなかったのか。理由は「においと油」だった。(共同通信=丸田晋司、鶴留弘章、西川祐亮)

大阪市の淀川河口付近で見つかったクジラ=1月12日

 ▽「クジラのようなものが潮を吹いている」
 まず、一連の経緯を改めて振り返ってみる。1月9日午前7時40分ごろ、第5管区海上保安本部に耳慣れない通報が寄せられた。
「クジラのようなものが潮を吹いている」
大阪湾岸近くのパーキングエリアにいたトラック運転手が、淀川の河口に生き物がいるのを目撃したのが全ての始まりだ。すぐに大阪海上保安監部が出動し、クジラであることを確認した。当初の発表によると、体長は推定8メートル。それでも十分に大きく、周囲に船が近づけば事故の危険がある。海保は周辺を航行する船に注意を呼びかけつつ、様子を見守った。大阪湾にクジラが迷い込むのは珍しく、SNSでは淀川にちなんで「淀ちゃん」と名前が付けられ、無事に沖へ戻ることを祈る人たちが現れた。
 10日になっても淀ちゃんは沖に戻らず、大阪湾の狭い範囲で潮を吹きながら泳いでいた。大阪海上保安監部も無理に沖へと誘導しようとはしなかったが、淀ちゃんは目に見えて弱っていく。11日午後3時ごろを境に、それまで動いていた尾びれが止まってしまう。頭頂部にある「噴気孔」は息継ぎのため海面に出ている必要があるが、これも沈んだままになった。潮を吹く様子も見られなくなり、専門家からは「既に死んでいるのではないか」との指摘が出始めた。
 それでも、淀ちゃんの生死をすぐに確かめることはできなかった。仮に生きていた場合、近づいた船が尾びれに当たるといった事故につながりかねず、調査に当たった人の命に関わることもある。2007年3月には愛媛県宇和島市の宇和島湾で、クジラを湾外に逃がそうとして船で近づいた男性が亡くなった。クジラが突然暴れて船が転覆し、男性は海に投げ出されてしまったのだ。
 最終的に、淀ちゃんが死んでいると確認したのは13日午前のこと。大阪市内の水族館「海遊館」の職員らが慎重に船で近づき、呼吸の有無などを確かめた。テレビ各局はその死をこぞって速報した。

砂浜に埋められた後、掘り出されたマッコウクジラの骨=徳島県阿南市、2017年11月

 ▽埋設?焼却?海洋投棄?
 淀ちゃんが死ぬと、今度はその巨大な死骸をどう処理するか、という課題が生じた。クジラは死後の腐敗が進むにつれて内部にガスがたまり、体が膨張して「爆発」することがある。強烈な臭いや体組織が広範囲に拡散するといった「惨事」が起きかねないため、悠長に考える時間はなかった。数日のうちに方針を決めなければならず、大阪府と大阪市が共同で設置する大阪港湾局が検討を進めた。
 クジラの死骸の処理方法は、大きく分けて三つある。一つ目は砂浜に埋める「埋設」。二つ目は、細かく切り分けて燃やす「焼却」。そして三つ目が、海に沈める「海洋投棄」だ。クジラの死骸が漂着した時の対処法をまとめた水産庁の「鯨類座礁対処マニュアル」に、こうした方法が紹介されている。淀ちゃんは陸に漂着したわけではなかったが、港湾局はこのマニュアルも参考に検討を進めた。ちなみに、骨格標本にするには一つ目の埋設が前提になる。
 この後の調査で体長15メートルと判明した淀ちゃんはマッコウクジラとしては最大級で、そのまま燃やすことは難しい。細かく切り分けるにしても、陸地に引き揚げて解体すればたちまち人目に触れてしまう。人気者となった淀ちゃんが切り刻まれる姿が万が一にもテレビで生中継されてしまったら―。そんな懸念が大阪港湾局担当者の頭をよぎった。大阪市の松井一郎市長が示した方針は次のようなものだった。
 「海から来たクジラ君ですから、亡くなってしまったら海へ返してあげたい」
 松井市長はペットに猫を飼うなど、こわもてに似合わない動物愛好家の一面を持つ。市長のそんな思いもあり、行政当局は海洋投棄の方針に傾いていく。
 一方、大阪市立自然史博物館は市の担当部局に対し、次のような意見を伝えていた。「貴重な骨格標本を全て譲り受けたい」。実際、以前に実績がある。2021年7月、大阪湾で全長10メートル超のクジラの死骸が見つかったときには、堺市にある大阪府所有の土地にいったん埋め、後に掘り起こして骨格標本にした。2022年12月から博物館が保管している。だが、クジラの死骸は地中に埋めてもなお臭いが周囲に広がる。周辺住民からは苦情が出ていたという。死骸から流れ出る油の影響で土地は何年も使い物にならないという事情もある。大阪港湾局はこのときの教訓から、大阪府内での埋設も難しいと判断した。
 結局、大阪港湾局は海洋投棄にする方針を決めた。自然史博物館が異を唱えることはなかったが、後日、ホームページに館長名義で載せたコメントには無念さがにじんでいた。「大阪湾、そして太平洋の現在を知ることができる重要な標本になることを期待して、取得を希望していました」
 松井市長は海に沈める方針を表明した際、標本化のため引き取るという申し出は「なかった」と記者団に説明した。だが、実際には市立の自然史博物館が意思表示をしていたことになる。後日、記者団から改めてその真偽を問われた松井市長は「担当部局に希望はあったと聞いている」と説明をあっさり修正し、こんな発言を加えた。「腐敗が進むと爆発するんで、そうなるとデメリットが大きすぎる。スピード感を持って処理しなければならないと判断した」。名前まで付けられたクジラが突然爆発し、その動画がインターネット上で拡散でもしたら大阪市が非難にさらされかねない。そんな考えが松井市長の頭をよぎったとしてもおかしくない。

学術調査などのため、作業船に載せられたマッコウクジラ=18日午後、大阪市此花区

 ▽「刃を入れるのはおなかだけに…」
 海に沈める方針が決まると、大阪港湾局や関係機関の動きは素早かった。発表した翌1月18日の午前8時には、淀ちゃんを川岸から運び出す作業が始まった。大阪港の岸壁まで引っ張り、作業船に載せる。インターネットで一部始終が生配信され、数万もの視聴者が様子を見守った。ちなみに、時の首相の記者会見を生配信した場合の視聴者数は「せいぜい1000くらい」(政治ウオッチャー)だという。
 大阪港湾局は淀ちゃんを学術的に調べるために集まった多くの研究者に対し、現場である要望をしていた。「刃を入れるのは、ガスを抜くためのおなかだけにしてほしい」。期せずして時の人ならぬ「時のクジラ」になってしまった淀ちゃんをなるべく傷つけず、きれいな姿のまま送り出したいという当局の配慮だった。調査の結果、淀ちゃんの体重は38トン、性別は雄と判明した。
 調査が終わると、体重に匹敵する約30トンのコンクリートブロックの重りが巻き付けられた。海に沈めたときに浮いてこないようにするためだ。まだ夜も明けきらぬ19日午前4時45分、報道各社の中継ヘリコプターのライトに照らされた作業船は、別の船にえい航されて岸壁を出発する。午後3時には目的地の紀伊半島沖に到着した。淀ちゃんが横たわっていた作業船の底が、ゆっくりと海面を押し込むように開き始めた。海水が入り込み、淀ちゃんを浸していく。徐々に浮力が生まれ、その巨体が浮き沈みする。海へ沈む間際、淀ちゃんの胸びれが揺れた。船の底が完全に開くと、淀ちゃんは水深1000メートルの海底へとゆっくり沈んでいった。

マッコウクジラ=資料写真

 ▽淀ちゃんのその後
 海に返った淀ちゃんはどうなるのか。国立研究開発法人海洋研究開発機構の藤原義弘上席研究員は、深海に生息する魚類や甲殻類のえさになると説明する。肉の部分がなくなり骨があらわになると、今度はホネクイハナムシという無脊椎動物が現れ、骨の中の有機物を吸収する。分解が進むと骨から硫化水素が発生し、硫化水素を利用する細菌や、菌を体内に保有する貝などが集まって分解を加速させる。クジラの死骸は多くの生き物の糧となり、新たな命をつないでいく。
 一般社団法人日本鯨類研究所の田村力さんによると、死んだクジラは50年から100年単位で分解され、もろくなった骨は海流で崩れて最後は砂になる。海の生き物は通常、海中で死ぬ。一連の対応について、田村さんは「ある意味で自然な処理となった」と振り返った。
 淀ちゃんの物語は2週間もたたないうちに終わりを迎えたが、その生態の一端は、専門家の手によって人間社会に還元されることになる。骨格標本にすることを望んでいた大阪市立自然史博物館は、淀ちゃんから採取した体の組織や計測データなどの研究成果を、何らかの形で公開する方針だ。生涯の多くを深海で過ごすマッコウクジラの謎を解く手掛かりが隠れている可能性もある。海洋に広がる環境汚染物質の実態が分かるかもしれない。博物館には、2010年に見つかったクジラの標本が展示されており、いつでも見ることができる。
 淀ちゃんを巡る騒動では、報道各社の取材に対し、クジラの知見を惜しげもなく披露してくれた専門家の存在が大きかった。一過性の動物ネタニュースとして消費するだけでは物足りないという方には、「専門知」に気軽に触れられる博物館に足を運んでみることをお勧めしたい。

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