なぜ袴田巌さんは「真犯人」に仕立て上げられたのか「袴田事件」の経過を改めてたどって判明した、刑事司法のずさんな実態(前編) 

生まれ故郷の雄踏町(現浜松市西区)を訪れた袴田巌さん(右)とひで子さん=2022年11月

 1966年6月に静岡県清水市(現静岡市)のみそ製造会社専務宅で起きた一家4人殺害事件「袴田事件」。袴田巌さん(86)は死刑が確定している。それでも無実を訴え続けた結果、2014年になって静岡地方裁判所が「犯人と認定できない」と判断。死刑執行を停止し、裁判のやり直し(再審)を開始する決定を受けた。逮捕から48年たってやっと釈放もされた。しかし、まだ裁判は終わらない。再審開始決定は、東京高等裁判所で覆された。弁護団の不服申し立てを受けた最高裁判所は2020年、東京高裁に審理を差し戻している。注目される東京高裁の判断は3月13日に示される。
 この事件を巡る経過を、弁護団や支援者、事件関係者、そして袴田さんを献身的に半世紀以上、支えてきた姉のひで子さん(90)を通してたどると、多くの謎が浮かぶ。真犯人を袴田さんとした捜査や裁判のずさんさには、首をかしげたくなる点ばかりだ。「証拠」とされたものを挙げると、凶器や犯行時の着衣、そして犯行を「自白した」とする調書などだが、いずれも有罪の根拠とはとても言えない。どういうことか、一つ一つ詳述していきたい。(共同通信=藤原聡)

 

生まれ故郷近くの浜名湖を訪れた袴田巌さん(右)と姉のひで子さん=2022年11月

 ▽あり得ない凶器、刃物店も「実は顔を見ていない」
 「凶器と認定されたくり小刀は、うちの店では扱っていなかった」。静岡県沼津市にあった「菊光刃物店」の高橋国明さん(73)は断言する。
 くり小刀は木工用の小さな刃物だ。事件現場の被害者の足元に、柄もさやもない状態で落ちていたのを静岡県警の捜査員が見つけ、殺害に使われたと認定した。袴田巌さんが1966年3月末か4月初め、菊光刃物店で購入したとされ、死刑判決の根拠の一つになっている。
 事件当時、学生で店を手伝っていた高橋さんは、刃渡り135ミリの種類のくり小刀だけを店で売っていたと記憶している。だが、県警が押収したくり小刀は、刃渡り120ミリだった。
 「2年前、雑誌記事の写真を見て、びっくりした」と高橋さん。記事には、県警撮影のくり小刀の写真が掲載されていた。大きさが分かるよう小刀の下に物差しを置いた構図だ。「物差しの目盛りを何度も数えたが、刃の長さは120ミリしかなかった」
 

裁判での父福太郎さんの証言記録を指さす高橋国明さん。菊光刃物店で135㍉のくり小刀を販売していたことが分かる。上は静岡県警が凶器とした、くり小刀(刃渡り120㍉)の写真

 店は事件の2年前、全焼。仮店舗営業だったため、仕入れ品を絞り、売れ筋の135ミリしか置いていなかったのだ。父親で店主の福太郎さんも証人尋問で「くり小刀というのは、長さが135ミリ」と証言している。
 高橋さんは、母親みどりさん(96)のこんな言葉も覚えている。1967年7月、検察側証人として静岡地裁に出廷したみどりさんは、帰宅すると、「証言の仕方って教えてくれるのね」と話したのだ。
 みどりさんは法廷で、捜査員から見せられた20枚以上の顔写真の中に見覚えのある顔があり、裏を見ると「袴田」と書いてあった、と証言した。
 しかし、当初は店に来た捜査員に「見覚えのある顔はない」と答えていたのを高橋さんは聞いている。つまり、証人尋問の前、検察側から応答の指導があったとみられる。死刑判決が出た後、「本当は見ていない」とみどりさんは話し、自分の証言で有罪になったのではないかと思い悩んでいたという。
 みどりさんはその後、脳梗塞の後遺症で寝たきりとなり、現在は意思疎通も難しい。介護する高橋さんは「母が存命のうちに、『袴田さんが無罪になったよ』と言ってあげたい」と話している。
 くり小刀以外にも、この事件は捜査、裁判ともに闇の深さを感じる。事件の少し前まで時間を巻き戻し、袴田さんを追ってみる。

プロボクサー時代の袴田巌さん=1961年(無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会提供)

 ▽ボクサー、ボーイ、バー経営、その後に入ったみそ会社で事件は起きた
 袴田さんは中学卒業後、浜松市の自動車整備工場に就職した。通勤途上にジムがあり、窓越しにボクシングの練習風景をのぞくうちに興味を覚え、19歳から通うように。働きながらジムで練習を続けた。やがてアマチュアボクサーとして頭角を現し、1957年9月、国民体育大会のボクシング競技にバンタム級の代表選手として出場。59年11月にはプロデビューした。
 翌1960年はテレビのボクシング番組のフェザー級トーナメント戦を勝ち上がり、7月のA級決勝戦にも勝利して優勝カップを手にする。この年の試合数は19。これは年間最多試合の日本記録だ。だが、多すぎる試合数や過酷な減量が原因で、目や脚に故障を抱える。61年半ば、引退に追い込まれた。
 袴田さんはジムの会長を頼り、キャバレーのボーイとして働いた。すると、酒類を納入していた酒店の店主が袴田さんの人柄を気に入った。店主が資金を出してバーを経営させたが、失敗。そこで、店主は取引先のみそ製造会社「こがね味噌」に頼み、袴田さんを従業員にしてもらった。事件の約1年半前のことだ。

袴田巌さんが働いていたキャバレーの跡。今は駐車場になっている=静岡市清水区

 1966年6月30日未明、静岡県清水市(現静岡市清水区)の「こがね味噌」専務、橋本藤雄さん=当時(41)=宅から出火、焼け跡から橋本さんと妻、次女、長男の親子4人の遺体が見つかった。遺体には刃物で刺された傷が多数あり、集金袋が奪われた疑いがあるため、静岡県警は強盗殺人放火事件として捜査本部を設置した。
 袴田さんは、みそ工場内にある寮に住み込みで働いていたが、週末は両親がいる浜北市(当時)の実家に帰っていた。事件後の土曜日、姉のひで子さんが実家を訪れると、袴田さんは隣家の住民と話し込んでいた。「巌が、にこやかに話していたのを見て安心した。事件とは関わりがないなと思ってね」
 ひで子さんはまた、弟と橋本さんが良好な関係にあったと聞いていた。「巌は、橋本さんにかわいがってもらい、背広をもらったこともある」
 ところが、捜査員が、袴田さんをぴったりと尾行するようになった。マスメディアの取材も過熱。袴田さんが逮捕されるのを前提にしたインタビューも試みられた。袴田さんは記者から県警に事情聴取された時のことを聞かれ、「『おまえがやらなくて誰がやるんだ』と言われた」「色めきたって犯人扱いするんだからたまらない」と答えている。
 捜査本部は8月18日、袴田さんを逮捕した。パジャマを切り取った布片を鑑定した結果、被害者の血液型と一致する血液の付着が確認されたことなどを理由に挙げた。

事件発生当時から残る橋本藤雄さん宅の土蔵

 ▽取り調べは16時間超、意識朦朧の中で取られた「自白調書」
 捜査本部は本格的な取り調べを始めた。清水警察署1階にある取調室は6畳間ほどの狭い部屋で、車の往来が激しい国道に面しており、冷房設備はない。残暑が厳しい季節。うるさくて蒸し風呂のような密室で、取調官が交代で長時間、ひたすら自白を強要した。
 袴田さんが留置場を出入りした時刻の記録「留置人出入簿」によると、取り調べがいかに長時間だったかが分かる。逮捕当日の1966年8月18日は、午前6時40分の事情聴取開始から逮捕状執行を挟み午後10時5分まで、食事時間を除き取り調べは13時間8分に及んだ。翌日以降も午前8時半ごろから午後11時過ぎまで連日12時間を超えた。
 深夜に留置場に戻ってからも、疲れを癒やすことができなかった。
袴田さんは後に静岡地裁の被告人質問で、当時の状況をこう述べている。「留置場に戻されまして、床につくんですが、かわるがわる酔っぱらいを連れてきまして、それが一晩中騒いでいるんです」。寝不足から中耳炎になり、体がむくんだ。
 対照的に、斎藤準之助弁護士らが接見した時間はわずかだった。8月22日に7分、29日に10分、9月3日に15分、3回で計32分だけである。
 袴田さんが否認を続けたことから8月29日、刑事部長、捜査一課長らが静岡市の県警寮・芙蓉荘に集まり、検討会が開かれた。「捜査記録」によると、今後の対策として〈取調官は確固たる信念を持って、犯人は袴田以外にはない、犯人は袴田に絶対間違いないということを強く袴田に印象づけること〉と確認した。
 この検討会議の後、天竜署次長の羽切平一警部ら2人が取り調べに加わった。羽切警部は、県警が発足する前の「国家地方警察静岡県本部」時代から捜査幹部だったベテランだ。

2014年に静岡県警の倉庫で見つかった、袴田巌さんの取り調べの様子を録音したテープ。取調室に便器を持ち込み、袴田さんが用を足したことが明らかになった

 取り調べは過酷さを増す。9月4日、袴田さんが「小便に行きたいです」と訴えても、取調官は「返事をしなさい」と取り合わない。しばらくして便器を部屋に持ち込み、袴田さんは用を足した。この日の取り調べは16時間20分に及んだ。
 そして勾留期限3日前の9月6日、袴田さんは犯行を「自白」したことになっている。袴田さんはこの日、疲れ切って頭痛がひどく、めまいもしたという。公判ではこう語った。「頭がズキズキしてたので、名前だけ書いて、突っ伏していたら、わたしの手を持って指印を押して、そのまま(取調官が)出ていった」。意識がもうろうとした中、「自白」の供述調書が作成された。
 袴田さんは、後になって取り調べがどういうものだったかを書き残している。1983年2月8日の日記にはこう記されていた。「殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ、といっておどし罵声をあびせ棍棒(こんぼう)で殴った。(略)午前2時頃まで交替で蹴ったり殴った。それが取り調べであった」
 【後編はこちら】https://www.47news.jp/47reporters/9049501.html

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