取り調べは「拷問」、裁判長は勘違い、エリート調査官も「誤り」 「袴田事件」の経過を改めてたどって判明した、刑事司法のずさんな実態(後編)

「こがね味噌」工場のみそタンクから見つかった「5点の衣類」(山崎俊樹さん提供)

 1966年に静岡県で起きた「こがね味噌」専務家族4人殺害事件。逮捕された袴田巌さんは、長時間に及ぶ警察の取り調べで意識朦朧とする中、「自白」させられた。静岡県では、これ以前にも似たような過酷な取り調べを経て自白調書が作成され、死刑判決後に再審で無罪となった事件がある。「島田事件」だ。捜査主任は、袴田さんの取り調べにも駆り出された天竜署次長の羽切平一警部。国家地方警察(国警)静岡県本部の職員録を見ると、羽切氏は島田事件当時、捜査課で強盗や殺人事件を担当する強力係長だったことが分かる。取り調べの実態を知れば、犯行を告白した「自白調書」がいかに信用できないかが見えてくる。(共同通信=藤原聡)

 【前編はこちら】 https://www.47news.jp/47reporters/9049392.html

赤堀政夫さんの上申書の一節。16時間の取り調べの間、便所へ行かせてくれなかったことなどが書かれている

 ▽名刑事から一転、「拷問王」と呼ばれた警部補
 「スワッタママデ私ハ小便ヲモラシタノデアリマス」。島田事件で死刑確定となった赤堀政夫さん(93)が1974年12月、第4次再審請求で静岡地裁に提出した上申書の一節だ。赤堀さんは、たどたどしい文章で「16時間の取り調べの間、便所へ行かせてくれなかった」と訴えた。袴田さんの取り調べとの酷似に驚かされる。
 赤堀さんは、静岡県島田市で1954年3月、幼稚園の女児が行方不明となり絞殺体で見つかった事件で殺人罪などに問われ、死刑判決を受けた。その後、再審が開かれて1989年に無罪となる。
 島田事件のほかにも静岡県では、死刑判決後に無罪となった強盗殺人事件が2件ある。幸浦事件と二俣事件だ。冤罪事件が相次いだ背景には、国警の紅林麻雄警部補の存在があった。
 二俣事件を振り返ってみる。静岡県二俣町(現浜松市天竜区)で1950年1月、親子4人が刺殺され、現金が奪われた。紅林警部補は、近所に住む18歳の少年に目を付け、別件の窃盗容疑で逮捕、4人殺害を厳しく追及した。
 少年は二俣署裏の土蔵に押し込められ、殴る蹴る、引きずり回すなどの拷問を受けた。4日後、少年は「4人を殺害した」と「自白」し、虚偽の供述調書が作成された。
 その後、少年が死刑を求刑されたのを知った捜査員の山崎兵八巡査が良心の呵責に耐えかね、拷問の事実を法廷で証言。警察は山崎巡査を偽証罪で逮捕し、免職にした。少年は一、二審で死刑判決を受けたが、最高裁が破棄し、無罪となった。
 難事件を次々と解決する「名刑事」ともてはやされた紅林氏は、二俣、幸浦両事件で無罪判決が出ると、「拷問王」と呼ばれるようになり、派出所勤務に左遷。島田事件の捜査からも離れ、部下の羽切氏が捜査を主導することになった。
 島田事件の赤堀さんは仙台刑務所から鈴木信雄弁護士に出した手紙に、「ひどい拷問をした人」として「紅林、羽切」らの名前を挙げている。

1950年の国家地方警察静岡県本部の職員録には羽切平一氏、紅林麻雄氏の名前が載っていた

 ▽犯行着衣は?パジャマを否定された検察側、“新証拠”を突然発見
 袴田巌さんの初公判は1966年11月15日、静岡地裁で開かれた。強盗殺人、放火などの起訴内容を全面否認。「私は、やっておりません」と無実を訴えた。
 検察側は冒頭陳述で、袴田さんがパジャマ姿で「こがね味噌」専務の橋本藤雄さん方に侵入したが、橋本さんや妻子に見つかったため、くり小刀で4人を刺して売上金を奪い、みそ工場の混合油をまいて放火した、と述べた。
 犯行着衣はパジャマ、凶器はくり小刀という主張だ。しかし、静岡県警の「捜査記録」にはパジャマから「血痕らしきものの付着は認めることができなかった」と書かれている。くり小刀を凶器とすることも前編で記述した通り、誤りだった。

静岡県警が押収したパジャマ(山崎俊樹さん提供)

 検察側が提出した証拠の中には「パジャマに血液と混合油の付着があった」とする県警の鑑定結果もあったが、弁護側は1967年9月5日の公判で再鑑定を求めた。その後、パジャマは再鑑定の末「油分は検出されなかった」という結果になった。しかし、この時点でパジャマは既に「用なし」になっていた。弁護側が再鑑定を求めた日の数日前に驚くべき事が起きていたためだ。
 67年8月31日、みそ工場のタンクから麻袋に入った血染めの衣類5点が発見されたのだ。事件発生から1年2カ月も後になって突然出てきたのは、鉄紺色ズボン、ステテコ、緑色ブリーフ、灰色スポーツシャツ、白色半袖シャツだ。
 静岡県警は9月12日、袴田さんの実家を家宅捜索し、たんすからズボンの裾上げで切った端切れを押収。翌13日、臨時の公判で検察側は「5点の衣類」を証拠として提出し、犯行着衣はパジャマではなく「5点の衣類」だと、主張を変更した。

「5点の衣類」が見つかったみそタンク(山崎俊樹さん提供)

 袴田さんは、自分の着衣ではないと否認。手紙に「タンクは、刑事たちが目の色を変えて捜索して何もなかった所」と書いた。
 姉のひで子さんは5点の衣類の一つについて、こんな話をしてくれた。「緑色のパンツ(ブリーフ)は次兄の家にあった」。逮捕後にこがね味噌から実家に送り返された袴田さんの所持品の中にこのブリーフがあり、次兄の実さんが実家に寄った際、持ち帰ったまま自宅に置いていたという。逮捕後の時点で兄の家にあったブリーフが、なぜ犯行着衣としてみそのタンクから見つかるのか。ほかにも不審点はある。ブリーフにB型の血液が付着しているとされたが、上にはくステテコやズボンにはB型の血痕がないのだ。

 

静岡地裁が袴田巌さんに言い渡した死刑判決

 ▽捜査を厳しく批判したが、結論は死刑。判決の裏側で起きていたこと
 1968年9月11日、袴田巌さんの判決公判が静岡地裁で開かれた。石見勝四裁判長は、結論を後回しにして理由の朗読を始めた。通常は極刑が予想される展開だが、意外なことに判決文は捜査を厳しく批判している。
 まず、検察側が提出した袴田さんの供述調書45通のうち44通は「証拠能力がない」として排除。理由は、1日平均12時間にもなる長時間の取り調べが続いたためだ。初めて「自白」した取り調べも「任意にされたものではない疑いのある自白」と指摘。ただし、吉村英三検事による調書1通だけは採用された。判決にはこんな「付言」もある。「捜査のあり方は(中略)厳しく批判され、反省されなければならない」
 さらに、「5点の衣類」をタンクに入れた状況や日時については「全く証拠がない」。被害者宅に侵入して格闘するまでの経緯などについても「自白」を裏付ける証拠はないとした。まるで無罪判決のような内容だ。ところが、朗読を終えた石見裁判長は、袴田さんに言い渡した。「死刑に処する」
 実はこの判決文を書いたのは、左陪席の熊本典道裁判官だった。熊本裁判官は、袴田さんが無罪との心証を持ち、350枚の無罪判決を書いて裁判官3人による合議に臨んだ。だが、石見裁判長と高井吉夫裁判官は有罪との意見を曲げず、2対1で死刑に決まった。熊本氏は心にもない死刑判決を書くことになった。
 判決から39年たった2007年、熊本氏は「無罪の心証で死刑判決を書いた」と告白し、袴田さんの再審開始を求めるこんな上申書を最高裁に提出する。「有罪判決を書かねばならなくなったため、妥協の産物として(調書1通を)採用した」「当時の東京高裁はそれなりに見識を持った裁判官がいたので、私の無罪心証に気づいてくれると信じて期待していました」。だが、熊本氏の切なる思いは、届かなかった。

元裁判官熊本典道氏(中央)は「無罪の心証で死刑判決を書いた」と告白した。右は袴田さんの姉ひで子さん=2007年7月2日、東京・小菅の東京拘置所

 ▽ズボンの「B」は肥満体用、と勘違いした東京高裁
 静岡地裁の死刑判決後、審理が始まった東京高裁では「5点の衣類」を実際に袴田さんに装着させる実験をした。袴田さんが要望したためだ。装着実験は1971年11月20日、東京高裁で実施された。
 法廷の隣室で、袴田さんは鉄紺色のズボンをはこうとしたが、太ももでつかえた。ファスナーは全開だが、いくら引っ張っても上がらず、はくことはできない。74年9月、75年12月にも実験が繰り返されたが、結果は同じ。一方で事件当時に袴田さんが着ていた別のズボンははくことができた。5点の衣類のズボンが小さ過ぎることは明らかだった。
 

袴田さんは装着実験で鉄紺色のズボンをはこうとしたが、太ももでつかえ、はくことはできなかった(山崎俊樹さん提供)

 ところが、76年5月18日、東京高裁は控訴を棄却。死刑判決を支持したのだ。犯行時の衣服を着られなかったのに、なぜ犯人なのか。横川敏雄裁判長は、ズボンのタグにあった文字「B」に着目し、要約するとこんな判断を示している。
 「BはB体(肥満体)用で、ズボンの元のウエストサイズは83センチから85センチあった。1年以上も水分・みそ成分を吸い込んだあと長期間証拠物として保管されている間に自然乾燥して収縮した。勾留中の運動不足によると思われる体重の増加も無視することができない。だから犯行時はズボンをはけた」
 しかし、横川裁判長の見立ては誤りだった。2010年に開示されたズボン製造会社の男性の供述調書によると、「Bは仕入れた生地を整理するためのもので、色を意味する」。この男性は、5点の衣類が発見された当初から捜査員にそう説明していたのだ。
 横川氏は、著書「刑事控訴審の実際」に、「裁判の理想像」として次のように記した。「裁くものと裁かれるものとが共に生きた人間としてその間に心の触れ合いを経験するようにすること」。この言葉が実践されたと言えるだろうか。

 

渡部保夫氏の著書「無罪の発見」。渡部氏は誤判防止について積極的に発言していた

 ▽人権派のエリート裁判官による「とんでもない誤り」
 東京高裁でも死刑とされた袴田さんは、最後の望みを最高裁に託し、上告趣意書を提出した。最高裁では上告趣意書などの裁判記録が最初、「調査官」に届けられる。最高裁調査官は、地裁や高裁で判事を経験した現職の裁判官だ。
 事件を担当したのは、刑事部門の渡部保夫上席調査官。東京地裁、札幌地裁・高裁などで判事を務め、多くの無罪判決を出したことで知られていた。裁判記録を読んでいた渡部氏はある日、同僚の木谷明調査官に話しかけた。
 「木谷さん、この事件は有罪ですよ。もし無罪だったら、私は首を差し出します」。さらに、みそ漬けの5点の衣類についてこうも言った。「警察が、こんな大がかりな捏造(ねつぞう)をすると思いますか」。渡部氏は調査報告書を書き上げると、判決文の草案を付けて第2小法廷の裁判官に届けた。
 1980年11月19日、最高裁第2小法廷(宮崎梧一裁判長)は上告を棄却した。14年余をかけた無実の訴えは数行の判決文で退けられ、死刑判決が確定した。
 渡部氏は退官後、北海道大教授に就き、誤判防止について積極的に発言した。著書「刑事裁判ものがたり」には、最高裁の使命として「無罪の疑いが強いのに有罪にされた」ような場合には「是正することが要請される」と書かれている。
 裁判官時代に30件以上の無罪判決を下した弁護士の木谷さんは、さんざん迷った末に渡部氏とのやりとりを明らかにした。「渡部さんのような人権派の裁判官でも、時にはとんでもない誤りを犯すことを知ってもらいたかった」

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