「入院ベッドはもういらない」精神科病院を町からなくしたら、患者が変わった。 アボカド栽培に挑戦、今では銀座の有名店に出荷

取り壊される御荘病院時代の病棟=2016年、愛媛県愛南町(長野敏宏医師提供)

 日本は世界の中で「精神科病院大国」として知られる。先進38カ国にある精神科の入院ベッド数のうち、日本だけで4割近くを占める状況だ。全国で約26万人が入院していて、10年以上という患者も約4万6千人いる。国は何年も前から患者の退院や病床削減を進めようとしているが、うまくいっていない。そんな中、半世紀余り続いた精神科病院を廃止した町が四国にある。自ら病院を閉じた元院長と患者たちが始めたことの一つが、日本では珍しいアボカドの栽培だ。試行錯誤を重ね、東京の老舗果物専門店、銀座千疋屋に出荷するまでになった。(共同通信=市川亨)

 

 ▽「共生社会」を体現、国内外で評価
 愛媛県の南端に位置する愛南町。海と山に囲まれた高台にかつてあった2階建ての病院は、取り壊されて姿を消していた。1962年にできた町唯一の精神科病院「御荘病院」には、最大時で約150人が入院していた。最後の院長、長野敏宏さん(52)が愛南町にやってきたのは1997年のことだ。
 長野さんは愛媛県の旧川之江市(現四国中央市)で生まれた。愛媛大医学部を卒業し、「何となく」精神科を選択。大学病院に勤務の傍ら非常勤で時々来ていた御荘病院が肌に合い、赴任を決めた。
 当時の院長も、患者を退院させて地域に移行することを志向。病床削減の計画を立てていた。これに対し、長野さんは当初「入院は必要」と反対だった。ただ、「家に帰りたい」と言っていた入院患者が年を取り、帰宅できぬまま病院で亡くなり、死亡診断書を書くのはつらかった。
 「自分がされたくないことを患者にしている自己矛盾」に直面した。鍵のかかる部屋に患者を閉じ込める隔離や、身体拘束…。「おかしい」と感じることを一つ一つなくしていき、「入院ベッドがなくてもやっていけるんじゃないか」と思うようになった。

「患者さんと対等な関係でいたい」と白衣は着ない(撮影のためマスクを外しています)=2022年11月10日、愛媛県愛南町

 33歳で院長に就任し、町のさまざまな役職を引き受けた。患者と一緒に地域の活動に参加し、病院の夏祭りには住民約千人が集まるようになった。病床削減や地域医療への配置転換には内部の反発もあったが、職員の世代交代や意識の変化を経て、2016年に病院を廃止。約20年かけてついに実現した。
 やがて、閉鎖病棟にいた患者たちの様子は変わった。生き生きとした表情になり、人間らしい暮らしを取り戻した。統合失調症で約10年入院していた60代の男性は今、アパートで1人暮らし。「カラオケに行くのが楽しみ。自由がいい」としみじみと話す。長野さんは「環境が変われば、こんなに変わるんだとびっくりした」。
 病院は現在、建物の一部を使った「御荘診療所」と、患者らが少人数で共同生活するグループホームなどに姿を変えている。長野さんの肩書は院長から診療所長に変わり、地域で暮らす患者を外来と訪問診療で支える。
 世界の精神医療の潮流は「患者を病院から地域へ」だが、入院治療に偏った日本の精神医療界では、長野さんは異色の存在だ。障害がある人もない人も共に暮らす「共生社会」を体現した町の取り組みは、国内外で評価されている。

御荘診療所。かつては奥に約150床の病棟があった=2022年11月11日、愛媛県愛南町

 ▽「すれすれまで地域で粘る」
 日本の精神医療では指定医の診断と、家族らのうち誰かの同意があれば、強制的に患者を入院させることができる。事実上、医師1人の判断で決まると言ってもいい。
 だが、愛南町に入院できるベッドはもはやない。入院がどうしても必要な際は、隣の宇和島市にある病院に入れるが、長野さんは「なるべく入院させない」。
 統合失調症で言動が不安定になる患者、ごみ屋敷のような家で暮らす人…。以前であれば入院させていた人々にも、今は何かあれば長野さんや看護師、精神保健福祉士らが24時間駆け付ける。
 すぐに問題を解決しようとはしない。無理に治療しようとすれば、かえって心を閉ざしてしまう。家に引きこもり会ってくれなければ、何カ月も何年も通う。
 「第三者から見たらぐちゃぐちゃの生活でも、そこでその人が暮らしていることが大事。『人を殺したり自分で死んだりしなければ』というぐらい腹をくくっ
て、すれすれまで地域で粘る」

御荘診療所が立つ高台から見える愛南町の風景=2022年11月11日

 とはいえ、現実にはきれい事ばかりではない。患者がトラブルを起こすこともある。病院をなくすことに住民から不安の声はなかったのか。行政としても困るのではないか。そう考えて町役場に取材した。
 町保健福祉課の幸田(ゆきだ)栄子課長はこう答えた。「住民から特に反対はなかったです。町としても、病院がなくなったからといって、特に困っていることはありません」
 幸田課長も保健師として、長野さんら病院スタッフと地域活動に長年取り組んできた。「住民は患者さんたちといろんな機会に触れ合ってきたから、それほど不安はなかったのだと思います」

精神障害がある人たちと長野敏宏医師がゼロから始めたアボカド栽培は、試行錯誤が続く。スタッフとの打ち合わせは欠かせない=2022年11月10日、愛媛県愛南町(撮影のためマスクを外しています)

 ▽人口減の厳しい現実
 実は、長野さんが愛南町で携わる活動のうち、「医療」はごく一部に過ぎない。NPO法人の理事を務め、温泉宿泊施設の運営などにも関わる。事業家なのかと疑うほどだ。NPOは障害福祉サービスの事業者でもあるので、精神保健福祉士や作業療法士が患者と一緒にそこで働く。
 

山のわき水を利用したアマゴの養殖。2年ものの出荷のため、1匹ずつ網で慎重に捕獲する=2022年11月10日、愛媛県愛南町

 背景には、少子高齢化が進む愛南町の厳しい現実がある。人口はここ20年で3分の1減り、2万人を割った。高齢化率は46%。長野さんは言う。「困っているのは障害者だけじゃないし、働き手が圧倒的に足りない。産業をつくり、みんなが働かないと地域が立ちゆかない」 

 NPOはかんきつ類やシイタケの栽培、川魚のアマゴの養殖も手がける。さらに、温暖な気候を生かして新たな特産物にしようと、2009年から取り組んでいるのがアボカド栽培だ。若い女性を中心に人気があり、国内の消費量は増えているが、ほとんどが輸入品。国産品には希少価値がある。
 山を切り開き、約1200本のアボカドの木を栽培。銀座千疋屋に出荷するまでにこぎ着けた。安定的な生産に向け試行錯誤を重ねる。

木に実ったアボカド=2022年11月10日、愛媛県愛南町

 ▽「実際に会ってみたら、イメージと違った」
 もちろん、事業は一人ではできない。行政や地元企業の協力が必要だ。清掃会社社長でNPOの理事長を務める吉田良香さん(66)は、長野さんと知り合って約20年。「一緒に挑戦も失敗もたくさんした」という盟友のような間柄だ。
 「昔は精神障害者のことは避けていた。偏見があった」。吉田さんは率直に語る。「だけど、実際に会ってみたらイメージと全然違った。今は誰が障害者とか、もう関係ない」
 日本の精神医療は長期入院や患者の人権侵害が長年、問題視されてきた。改革の必要性が叫ばれながら、社会の偏見や、病院団体の反発などが複雑に絡み合い、なかなか変わらない。
 長野さんはこう話す。「誰かを悪者にしても何も解決しない。時間がかかっても、私たち一人一人が自分のこととして一歩ずつ進めていくしかない」
 昔の病院を思い出した長野さんはぽつりと言った。「ひどいところでした、ほんとに」

愛媛県愛南町のNPO法人が銀座千疋屋に出荷したアボカド=2020年(長野敏宏医師提供)

 ▽取材後記
 長野さんがたびたび口にする言葉がある。「覚悟」と「文化」だ。
 何か問題が起きたら、組織のトップで医師である自分が責任を取るという覚悟だが、そこには確固たる基盤がある。これまで築き上げてきた地域の資源や、町の関係者との信頼関係だ。そしてそれは同時に、精神障害を取り巻く地域の文化を変えた。
 「精神障害者は危ないから、入院させてほしい」ではなく、「むやみに入院させられることはないから、診てもらおう」という風に。「いない方がいい」から「いないと困る」に。
 それができたのは、長野さんや愛南町が特別だからだろうか。全ての精神科病院の医師や職員、そして私たちも問われているのだと思う。

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