フィリピン各地に、日本人の血を引きながら日本人ともフィリピン人とも認められず、国籍のない状態で生きている高齢の人々がいる。いわゆるフィリピン残留日系2世だ。アジア太平洋戦争で日本人の父親ら家族と離れ離れになり、フィリピンに取り残された。戦後は反日感情から差別や迫害の対象になり、山中やへき地でひっそり生きてきた。
自分のルーツである日本の国籍を取得したいと望む人もいるが、日本人の父親とのつながりを証明する書類を戦災で失ったケースが多く、手続きは困難を伴う。「家族と引き裂かれ、国籍も得られなかったのは日本が戦争を始めたから。日本政府はフィリピンで生き抜いてきた2世のことを見捨てないでほしい」。そう訴える当事者もいる。平均年齢は83歳。残された時間は少ない。海を隔てた隣国で、「祖国」を思う2世たちの姿を3回続きで報告する。(共同通信=岩橋拓郎)
▽戦争の傷痕
日本の外務省によると、2022年3月末時点で確認されている2世は、死亡や生死不明も含めて3808人。このうち、父親は分かっているが父親の戸籍に記載されていない人、父親の戸籍が未判明で自分の戸籍もない人が計2289人おり、生存が確認されている人は208人となっている。
恥ずかしながら、私は2016年9月にマニラ支局に赴任する直前まで、フィリピンに残留日系2世がいるとは知らなかった。国外での「残留」と聞くと、中国残留孤児が頭に浮かぶばかりだった。
そもそもなぜフィリピンに日系2世が多くいるのか。明治末期から日本人は仕事を求めて海を渡り、フィリピン北部のルソン島や南部のミンダナオ島で暮らし始めた。とりわけミンダナオ島の最大都市ダバオには多くの日本人が住み、1930年代には約2万人が居留し、「リトル東京」と呼ばれる地区もあった。邦字新聞社や神社もあったという。
移住した日本人男性は現地の女性と結婚し、家庭を持った。マニラ麻の栽培で生計を立てる人が多く、豊かな移民社会を築いたが、戦争が始まると生活は一変した。日本人の父親が日本軍に召集されたり、戦死したりして、家族がばらばらになってしまった。
日本の敗戦後、現地に残されたフィリピン人の母親と2世の子どもには強い逆風が吹いた。反日感情から差別の対象となり、財産は没収された。迫害から逃れようと山中に隠れ、イモや根菜類、川の水を口にして生き延びた人もいる。出自を隠し、日本名を封印した。貧しい暮らしを余儀なくされ、教育を受ける機会がなかった人も多い。
当時の法律は、日本、フィリピンとも、子供の国籍は父親の国籍に合わせる父系主義を採用しており、本来であれば日本国籍が付与されるはずだった。そのためには日本の父親の戸籍に載っていることが必要だが、父親が死亡したり戦後に強制送還されたりして戸籍に記載されないまま現地に取り残された。後から父親との血縁関係を証明しようとしても、戦後の混乱で身元を証明する書類を消失したり、出自を周囲に知られないためにあえて廃棄したりして証明が難しく、日本国籍を認められていない。
母親がフィリピン人の場合、21歳から3年の間に希望すればフィリピン国籍を得られたが、多くの2世は戦後の困難な生活の中、その手続きを知ることができなかった。こうして日本国籍もフィリピン国籍もない無国籍状態に陥った。
▽「命あるうちに」
残留日系2世は長らく忘れられた存在だったが、反日感情が和らいできた1980年代以降、それまで出自を伏せてきた2世たちは各地で日系人会を組織するようになった。「父親と自分のルーツを知りたい」「自分が日本人だと認められたい」との思いから、2世の間で日本国籍取得を願う声が次第に高まってきた。自身のアイデンティティーの問題に加え、日本国籍を取得すれば3、4世は日本での定住や就労が可能になるため、生活を上向かせたいという経済的な理由も背景にはあったようだ。
私は2016年から2021年までのマニラ支局在勤中、2世の日本国籍取得を支援するNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC、東京)の聞き取り調査に何度か同行させてもらったことがある。聞き取った内容は陳述書などにまとめて日本の家庭裁判所に提出し、新たに戸籍を作る「就籍」の許可を申し立てる。戸籍を作れれば自動的に日本国籍を得られる。
西部パラワン島を訪れたのは、2019年9月だった。PNLSC代表理事の猪俣典弘さんや在フィリピン日本大使館の担当者、日本の弁護士らが、島内の田舎町に住むフリオ・オオシタさん(92)から幼少時の記憶や父親との思い出を聞き取った。
その内容や後に家庭裁判所が作成した審判などによると、オオシタさんの父、大下松市さんは1911年、農業に従事するため長崎県からフィリピンに渡航。現地の女性と結婚した。戦争が始まると日本人は敵視され、1942年に地元ゲリラに射殺された。
オオシタさんは父や日本人とのつながりを求め、1960年代に兄と共に在フィリピン日本大使館に手紙を送り、日本に住む父の親族捜しを求めたが進展しなかった。それから半世紀がたった2018年、日系人の知人からPNLSCの存在を教えられ、自ら連絡した。
聞き取りの席でオオシタさんは、笑顔を交えながら日本語の歌や簡単な単語を披露し、地元の言葉で「私には日本人の血が流れている。命があるうちに父の故郷に行ってみたい」との希望を述べた。PNLSCの調査で父の本籍地が広島県だったと判明、地元の家庭裁判所に就籍許可を申し立て、2021年に認められた。戸籍は「大下フリオ」と漢字を交えた名前で作り、90歳で念願の日本国籍を取得した。
▽届かなかったあと一歩
就籍は時間との闘いでもある。日本国籍取得を願いながら、間に合わなかったケースもあった。
2019年、フィリピン南部ミンダナオ島ダバオの山中にある木造の質素な家に、プラクシデス・バクースさん(75)を訪ねた。夫ペドロさんは日本国籍取得の手続きを始めようとした矢先、病魔に襲われて亡くなった。
ペドロさんは1942年、中部セブ島で沖縄県から移住した漁師川上太郎さんとフィリピン人の母の間に生まれた。前年の12月に戦争が始まり、日本軍が侵攻したフィリピンでは各地で激戦が展開されていた。川上さんは開戦後、日本軍に加わり、以降は行方が分からなくなった。山中でフィリピンゲリラに殺されたとの話もある。
終戦後、フィリピンでは日本人への憎悪があらわになり、ペドロさんの母は身分証明に関わる書類を全て廃棄し、ペドロさんに「カワカミ」と名乗ることを禁じた。生きていくためには、日本とのつながりは邪魔だった。
母子は経済的に困窮し、ペドロさんは小学4年で学校に通うのをやめた。引っ越し先のミンダナオ島でプラクシデスさんと出会い、4人の子どもをもうけた。
農業にいそしんでいたペドロさんが日本国籍取得に向けて行動を始めたのは2003年ごろ。「晩年を迎え、自分が何者なのか考えていたようだ」とプラクシデスさん。だが父の記憶はなく、身元を示す証明書もない。もう一つの祖国を訪れ、父のことをもっと知りたいが、たどり着けるか分からなかった。
それでも「私には日本人の血が流れている」と諦めなかった。地元の日系人会などの尽力で、沖縄県うるま市に父の戸籍があることが判明。日本の家庭裁判所に戸籍作成の許可を申し立てるため、自らの半生を陳述書に記した。
ただ、がんが体をむしばんでおり、2018年に76歳で他界した。
「日本人の子孫との証明を得て、最後は日本人として生きたかったようです」。プラクシデスさんが亡き夫の思いを静かに代弁した。
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連載(中)では、マニラ駐在の記者が、電気が通じていないフィリピンのへき地の集落を訪れ、戦争中に殺された日本人男性ハラダ氏の末裔を取材して書いたルポと動画をお届けします。