【連載「二つの祖国」(中)】フィリピン奥地の日系人ハラダ一族に支援の明かり 戦後78年、苦難と歓喜「私たちは忘れ去られていなかった」

フィリピン・パラワン島北部の未電化集落シグピットで、太陽光を用いた電灯を手にして喜ぶ住民ら=2023年1月22日

 フィリピン西部パラワン島のへき地。電気も車道も通じていない集落に、太平洋戦争後に残された日系人のハラダ一族が住んでいる。パラワン日系人会は1月22日、この集落に太陽光の電灯を持ち込んで支援した。住民の約2割を占める一族は「私たちは忘れ去られていなかった」と歓喜した。誰も日本国籍を認められていないが、戦後78年となった今も、遠く離れた日本とのきずなを信じ、苦難を耐えてきたのだ。(共同通信=佐々木健)
 ▽日本人親族との再会が悲願
 この集落は、島の北部タイタイ市の外れにあるシグピット。人口約800人のうち200人近くが、戦争中の1941年にフィリピン人の兵士に連行され、殺された日本人男性ハラダ氏の末裔という。

タイタイの位置

 ハラダ氏とフィリピン人の妻との間に生まれた日系2世の5人のうち、唯一存命のロサリナさん(83)は「いつか日本に行って親族を捜したい」と語り、父やきょうだいの生前の悲願を果たしたいと希望をつなぐ。ただ血縁関係の証明書類が不十分で、国籍回復は難しいのが実情だ。
 フィリピンの2世の多くは戦前・戦中に日本から渡った父親と現地の母親の間に生まれ、父親が戦死したり、強制送還されたりしてフィリピンに残された。父系の血統を採用する当時の法律により、日本国籍が与えられることになっている。
 だが、東京のNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC)によると、血縁を証明できず、国籍を持てない人が今も約600人いる。2世は高齢化が進み、平均83歳。2世が国籍を回復できなければ、その子孫が日本に渡る望みはほぼ失われる。

ハラダ家の歴史を語る日系2世のロサリナ・ハラダさん=2023年1月22日、シグピット

 ▽船で50分、美しくも貧しい集落
 集落は島々が点在する入り組んだ湾の奥にあり、海路でしかたどり着けない。パラワン日系人会などの一行は、パラワン島の中心都市プエルトプリンセサから車で4時間移動し、ボートに乗り換え、さらに50分かけてたどり着き、住民の歓待を受けた。遠隔地の住民に太陽光の電灯を届けてきたフィリピンの市民団体が協力し、4人の設置スタッフを送り込んだ。
 電灯は再利用したペットボトルの中に入れ、太陽光パネルやバッテリーとつないで製作した。市民団体スタッフらが柱にくくりつけた街灯を広場に立ち上げると、バスケットボールで遊んでいた子供たちが物珍しげに集まってきた。
 集落はインフラ整備が遅れ、携帯電話も一部で何とかつながる程度だ。海は美しいが、漁業などに頼る生活は貧しく、発電機を持つのは5世帯だけ。日系人会は150以上の電灯を広場で配布した。明かりを手にした住民は並んで記念撮影し、日本語で「ありがとう」と大歓声を上げた。

動画はこちら https://www.youtube.com/watch?v=Ql4QtsHhh9Y

 ▽小学2年で退学、嫁は実家と断絶も
 パラワン島では戦時、日本軍の侵攻により多くの島民が犠牲になり、反日感情が強かった。日本人の血を引くロサリナさんは、子供時代からいじめられてきた。建設業に従事していた父を失い、ハラダ一族の生計は困窮し、小学2年生で勉学を断念することになった。
 3世チャーリー・ハラダさん(63)と結婚したフィリピン人のシャーリーさん(57)も、家族に猛反対され、絶縁された。日本軍に殺された親族がいたためだ。ようやく口をきいてもらえるようになったのは、一緒に暮らし始めてから15年後だった。今は6人の子と17人の孫に恵まれているという。
 ハラダ家の一員となったシャーリーさんは、日本人に対する世間の評判に敏感だ。だからこそ、日系人に限らず全世帯に電灯が配られたことを喜んだ。日が暮れて海上に建てられた自宅に戻り、受け取った電灯に照らされ、「とてもうれしい」と涙ぐんだ。「電灯だけではなく、私たちのことを覚えていて、遠くからわざわざ来てくれたことが何よりの贈り物だ」と訴えた。
 パラワン島の日系人はフィリピン人の憎悪の的になるのを避けるため、生い立ちを隠してきた人が多い。だがチャーリーさんは、一族を引っ張ってきた父アナスタシオさんについて、世間の非難に抗してハラダ姓を名乗り続け、「日本人」としての誇りを守ろうとしたと振り返った。日本人だと証明する書類も大切に保管していたが、台風の水害で失ってしまったという。

太陽光を用いた電灯の使い方を学ぶ日系3世チャーリー・ハラダさん(左手前)と妻シャーリーさん(左から2人目)=2023年1月22日、シグピット

 ▽受け継がれた日本人の証し
 チャーリーさんは電灯について、日本とのつながりを確かめる「心情的な価値」があると感謝した。父からは生前、「親族を捜しに日本へ行ってほしい」と何度も懇願された。祖父の故郷は「ナゴヤ」だとも聞かされた。だが「日本に行ったことはないし、ナゴヤがどこにあるのかもしらない」。父は日本人として認知されることなく、2006年に世を去った。
 フィリピン人は伝統的に魚を生で食べないが、チャーリーさんは刺身を好む。いつも父が調理してくれたからだ。子供時代、父の物を無断で使い、日本語で「ドロボウ」としかられたことも、懐かしそうに打ち明けた。
 フィリピンでは1980年代に南部ダバオで日系人会が組織されたが、パラワン島では反日世論を恐れた人が多く、昨年8月に日系人会がようやく旗揚げされたばかり。電灯配布は初の本格支援事業となった。集落を訪れたマーガレット・ルマワグ会長(65)は「日系人が自信を持ち、名乗りを上げるきっかけになってほしい」と期待を込めた。

太陽光を用いた電灯を自宅にともした日系3世チャーリー・ハラダさん(右)と妻シャーリーさん(左)と孫=2023年1月22日、シグピット

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 連載(下)では、晩年を迎えた2世を支援する人たちの取り組みや、家族を日本軍、米軍、フィリピンゲリラに殺された2世が語った言葉についてお伝えします。

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