戦争に翻弄され、国籍を持たないまま戦後を生き抜いてきたフィリピン残留日系2世たち。日本とのつながりを求め、国籍取得を願うが、父親が日本人であるとの立証が難しく、「救済」には時間がかかっている。「祖国」の一人と認められる日はいつ訪れるのか。晩年を迎えた2世を支援する人たちの取り組みを追った。(共同通信=岩橋拓郎)
▽「日本人の忘れもの」
2022年12月20日、東京・永田町の衆議院第一議員会館で、無国籍のフィリピン残留日系2世問題をテーマにした勉強会が開かれた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)駐日事務所とUNHCR国会議員連盟が共催し、国会議員や議員秘書のほか、外務省と厚生労働省の担当者らも出席した。
会合では、フィリピン南部ミンダナオ島ダバオからフィリピン日系人会連合会のイネス・マリャリ会長(51)がオンラインで参加し、「2世の平均年齢は既に83歳。存命のうちにアイデンティティーをはっきりさせることが大切です。自分がどこの国に所属しているか分からないまま亡くなることがいかに悲しいことか、つらいことか想像に難くありません」と流ちょうな日本語で訴えた。マリャリさんは鹿児島市出身の祖父を持つ日系3世。日系人の地位向上や日本とフィリピンの交流に貢献したとして、2022年に旭日中綬章を授与されている。
2世の日本国籍取得を支援するNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC、東京)の理事、青木秀茂弁護士は、日本国籍回復の手段として、家庭裁判所の許可を得て戸籍を作成する方法があると説明。ただ、家庭裁判所での手続きは長ければ2年以上かかるほか、父の身元証明につながる資料を破棄・紛失してしまったケースが多いことを挙げ、証拠がない2世の日本人認定や一括救済、特別帰化といった配慮を求めた。
国会議員からは前向きな発言があった。UNHCR国会議員連盟の会長を務める逢沢一郎衆院議員は「少なくとも無国籍のリスクにある590人、特に明確に日本国籍を希望する81人については希望に応える政治的使命がある」と前置きした上で「一人一人の人間の安全保障、人権に関わることで、人道大国日本として取るべき選択は明らかだと思う。一括解決方式がフィリピンになじむのかどうか研究しなければならないが、この『日本人の忘れもの』をぜひ解決に導いていきたい」と述べた。
▽日本名も言葉も捨て、生きた
2世の支援のため、新型コロナウイルス禍前は年間100日以上フィリピンに出張、滞在し、流ちょうなタガログ語を使って各地で聞き取りを続けてきた人物がいる。PNLSCの猪俣典弘代表理事(53)だ。
「名前は誰がつけてくれましたか」「日本の歌は知っていますか」。向き合った高齢の2世にソフトに語りかける。記憶の糸をたぐってもらいながら、やりとりを陳述書にまとめる。陳述書や他の資料をそろえて日本の家庭裁判所に提出し、戸籍を作る許可を得るのが目的だ。日本では史料や戸籍の調査をして、2世の父の身元や渡航歴を調べる。
聞き取りの場で語られるのは壮絶な経験だ。出生、戦争、肉親との離別、差別と貧困…。「1人の陳述書を取ると、映画を1本鑑賞したような気分になる」。戦後、フィリピンでは反日感情が高まり、日本人や日系人は迫害対象になった。身を守るため、2世は日本の名前も言葉も、身元を示す書類も捨てて生きてきた。苦難の人生が凝縮された数枚の陳述書は、「日本人であること」の証明書でもある。
2世はフィリピンのへき地に住んでいることが多い。それでも聞き取りをするとなると、未舗装の道を半日かけてやってきてくれる人もいる。「お父さんはどんな人でしたか」と尋ねると、「真面目で優しい人でした。そんな父の子であることを誇りに思って生きてきました」との答えが返ってくる。2世たちの心には、父親のかすかな思い出が今も眠っている。
「彼らは二つの祖国のはざまに落ち込んだ戦争の犠牲者。この問題がある限り、戦後は終わっていない。『同胞』を一人も置き去りにしたくないんです」と猪俣さんは語る。
▽想定外の面会
猪俣さんにとって印象的な場面がある。2016年1月に天皇、皇后両陛下(現在の上皇ご夫妻)がマニラを訪問した時のことだ。
両陛下はホテルのロビーに集まった2世約90人の輪に囲まれ、笑みを浮かべていた。日系人側は「高齢の2世にとって面会できる最後の機会」と焦りにも似た思いを関係省庁への手紙にしたため、異例の面会が実現したのだ。
水面下で動いていたのは、前述のマリャリさん。当初、日系人の代表者5人と配偶者に両陛下との懇談の機会がある予定だと現地の日本大使館から聞いていたが、「苦境を経験した高齢の2世たちも面会できないだろうか」と考えた。
マリャリさんは大使館と交渉を始め、宮内庁と外務省の幹部宛てにも日本語で手紙を書いた。天皇陛下が新聞をよく読むと聞き、残留日系人の存在を記事で取り上げてもらえないか知り合いの記者に打診もした。
「一瞬でもいい。沿道で日の丸を振るだけでもいい」。当局から前向きな反応は得られなかったが、両陛下の宿泊先ホテルのロビーに集まることは認められた。代表者以外との懇談は予定になく、面会が果たせるかは分からない。
当日、会議室で代表者との懇談を終えた両陛下は、ロビーで4列になって待つ2世約90人に歩み寄った。後列の人にも近づき、手を取りながら「来てくれてありがとう。体に気を付けて」といたわった。急きょの面会は2世の思いを酌んだ両陛下の意向だったという。マリャリさんは「想定外の面会で日本人の子孫との誇りが生まれた」と振り返る。
▽家族は日本、米国、フィリピンに殺された
一連の取材をしていて、強く心に残った言葉がある。
「家族と引き裂かれ、国籍も得られなかったのは日本が戦争を始めたから。無国籍の2世は祖国に忘れられた『棄民』なんです」
言葉の主は2世の寺岡カルロスさん(92)。1930年、フィリピン北部ルソン島バギオで山口県出身の日本人の父親とフィリピン人の母親の間に生まれた。当時、バギオには日本人の入植者が大勢住んでおり、父は建築業で成功した人だった。
10歳の時にアジア太平洋戦争が始まった。通っていた現地の日本人学校では愛国心をたたき込まれ、「バギオに編隊を組んで飛んできた日本軍の飛行機の日の丸を見てうれしかったのを覚えています」。
戦況は悪化の一途をたどり、1945年4月23日、家族で山中に逃げた。父は既に病死していたため、母や妹、弟ら計10人ほどで獣道を歩いた。しかし翌24日、米軍機に見つかって爆撃され、母と弟が亡くなった。日本兵に合流したが、食べ物は雑草とサツマイモくらいしかなかった。
8月15日、米軍機が飛んでこなくなり、そのうち「戦争は終わった」と書かれたビラが山中にまかれ、9月に山を下りて捕虜になった。
2人の兄が死んでいたことを知ったのは終戦後のことだった。日本軍の通訳をしていた長兄は米国製たばこを吸っていたことを理由にスパイの疑いをかけられ、憲兵隊に連行され処刑された。次兄はフィリピンゲリラに捕まって殺された。
家族は日本、米国、フィリピンに殺されたことになる。
捕虜収容所を経て、10月に引き揚げ船で日本に向かった。山口県にいる祖父を頼り、その後、広島県の楽器店で働き始めた。しばらくして父の戸籍に自分の名前がなく、無国籍だと分かった。国籍がないまま日本で暮らすのはつらいし限界があると考え、21歳でバギオに戻り、フィリピン国籍を取得した。
材木やエビ養殖の仕事に携わり、引退したのは1992年。次第に「日本とのつながりを確認したい」と思うようになり、1998年に「寺岡刈呂(かりろ)」の名前で父親の戸籍に登録した。
人生は戦争に翻弄され、家族も失った。寺岡さんが目に涙を浮かべながら語った言葉の重みは忘れられない。「2世は自分に日本人の血が流れていることを誇りに思っている。日本政府はフィリピンで生き抜いてきた2世のことを見捨てないでほしい」