古村比呂さん 再々再発を公表 治療を前に思うコト もっと患者も次の薬がほしい、と言っていい 両側乳がんになりました183

次の誰かのために・・・

2月4日はワールドキャンサーデーでした

小さなものから大きなものまで世界中でがん患者さんのことやがんの病気について、家族との関わりについていろいろ知ってほしいということでたくさんのイベントが行われました。

SODANEでも【患者とココロ】をテーマにイベントを展開。がんとともに生きる、子宮頸がんサバイバーの古村比呂さんにお越しいただきました。

場所は江別 蔦屋書店。実は古村比呂さん、生まれは美幌町で3歳から東京に出る18歳まで江別に住んでおられたのです。著書の取材で昨年の春にお会いして以来何かできたらいいね、とお話ししていて、ようやく実現となりました。

私の著書の取材も古村さんにはしていただき、動画も配信いただいています。

https://youtu.be/d5o55EeIaj4

古村さんが患われている子宮頸がんと私の乳がんはやはり働く女性のがん。言葉通りの働くだけではなく、子育てをされたりとかいろいろ経験が豊かになる年齢。
抱えるものが多い中で、り患するといろんなことが起こります。

さらに古村さんは2023年に入って再々再発(再燃)を公表。治療を控える中での心の動きなど丁寧にお話されました。

著書「手放す瞬間 子宮頸がん、リンパ浮腫と共に歩んだ私の10年」に込めた意味

古村さん『自分の過去を振り返りながら それをどう自分の中で紹介していくかっていうことと 次の一歩につながるものになるかなって。でも、当初は私は結構クエスチョンで書き始めたんです。でも書いてすごく気持ちが整理されて次が見えてきた。書く事ってすごい切り替えられるなっていうのも大きいなと思いました。(タイトルは)自分の全部を手放してるなって思ったからなのです。1月の箱根駅伝を見た後半あたりでしょうか。編集者の方に、このタイトルどうですかって・・・本当になんとなく浮かんできたという感じです。』

阿久津『ガンさんこれからお互い歩み寄っていきませんかっていうフレーズが印象的でした』

古村さん『再々発のとき、お話をさせてもらった15分の講演があったんです。その時にほぼ原稿なかったんですけどこの言葉が浮かんできて。その時も自分は闘うんじゃないっていうのは思いましたね。』

阿久津『非常にこのあたりも私も読ませていただいて共感した部分です。』

自分の体と闘うのはベクトルが違うのではないか、そう古村さんは言います。さらに、一人一人を置かれている環境だったり、家庭だったり、その方のがんの性質みたいなところによって全く違ってしまう。だから一概には言えない。がんは本当にひとつではありません。

このイベントの3日後から治療が始まるというタイミング。古村さんは胸のうちを語ります。

古村さん『来週から治療が始まります。抗がん剤治療が始まるんですけれど、まずその治療は残念ながら期限は決まってないので自分の体と相談しながら受けられるだけ受けていこうという。まずは治療ができるので、そこは本当にありがたいと思いますね。』

古村さんはご自身のYouTubeで詳細に話されていますが、2022年の秋、つい最近保険適用になったばかりの治療をされています。免疫チェックポイント阻害薬です。

古村さん『子宮頸がんの場合はり患する人が乳がんなどに比べて数が少ないのでなかなか研究のスピードも承認される薬も少なく、スローペースだなと思うんですけど承認されたのでそれが受けられる。病と向き合う時に1日1日長く生きていくと次の治療が生まれるという希望感みたいなことを本当に感じてるところ。』

古村さんはサバイバルの中で学んでいくと先生との関係、アプローチの仕方とかもグイグイできるようになったと実感されています。

さらにサバイバーとして、次の薬を待っているんです、ということをちゃんと伝えていくことも大事なのではないかとおっしゃっています。
患者中心の医療の進歩っていうようなことも今、バズワードになっています。

古村さん『声を出して早く次の治療は?って言っていくってことが私たちもできることっていうことかなとも思います。今の体調は、ここに来たら元気になったんですけど腎臓が炎症起こしているので、痛み止めとは飲むようにしています。』

私の場合は告知をされた時に家族にどう伝えるかというのを非常に悩み、母親には伝えずに手術に向かいました。今回の再燃、古村さんはご家族にはどのように伝えたのでしょうか?

古村さん『やっぱり、また迷惑かけちゃうかなとか 伝え方をいろいろと考えたんですけど、今回はLINEで伝えて。

母はですね、すんなりと、あ、そうと。

病院から帰ってきてその日の夜だったかな、母が来て、”なんか私今回大丈夫みたい、落ち着いてる。一番落ち着いてる”と。”頑張ろうね”とか言って去っていったんですよ 。

色々と母なりにがんのことを学んでくれたのかなっていうのもあります。息子たちにも伝えてもそう、だけでまあ、これから頑張ろうねっていう形で。

何でしょう。日常としてはまた治療するのかなっていうぐらい。特別に変わったことはないという 家族の中では。』

家族が普通にしていてくれているというのが一番古村さんにとっては良かったと話します。

古村さん『私の場合は急に周りの空気が変わったりとか対応が変わることの方が辛いんですね。

でも辛いからと言って どう伝えればいいかっていうのは本当になりたての頃とか全くわからなかったんですけど治療していくうちにそういうものがアプローチの仕方が見えてきて結構あまり特別しなくて今はいられるということなんですよね』

実は古村さんのお母様、本の中でも書かれていますが、り患したばかりのころ、うつ病を発症されています。

古村さん『みるみる体調が変わりましたね。その時は私もその周りにも、少数の人にしか関係者以外には伝えていなかったので私も苦しかったし、家族もですけどね。そうすると我慢の限界って絶対私は人にはあると思うんです。

お酒の量も一緒だと思うんですけど我慢のマックスってあると思うんですよね。それがもう溢れちゃうと本当に崩れるように変わっていくっていうのはあるんじゃないかなって私は感じていて。 我慢はやっぱり病気をした時とかは特に誰かに任せるという。我慢はNGって私の経験ではそう思います。』

病とは『共存、共に生きていきましょう』、古村さんにとっては自分の中でそれが一番フラットでいられる表現だと話します。

今回もそうでしょうし、ずっと前から周囲からの声かけでちょっと困ったことはないか、聞いてみました。

古村さん『やはり腫れ物に触るような言葉っていうか まずは休んだ方がいいんじゃない?とか、治療に専念した方がいいんじゃない?っていう優しさで言ってくださるんですけれども 何かそこには壁が見えてきちゃう。孤立感が孤独感が増しちゃうっていうのはしんどかったことはありました』

私は『配慮という名の排除』と言っていますが、心配をしてくださっているのはわかっているのです。荷物持っておくよとかそれはありがたくて感謝なのですが、この仕事できないんじゃない?とか、仕事を辞めた方がいいんじゃないか?とかそれは自分が決めるよって思うのです。

古村さん『こちらもどう返していいかはやっぱり最初はわからないのでなんか重い空気だけ残っちゃって。でもそれは何か変わっていけるような気がしますし、変えていかなくてはいけない。』

阿久津『周りの方にもちょっとそれを理解をしていただいてその方に対するお声かけを変えていただきたいなというような思いがありますよね。』

結局1時間の時間からオーバーをして、会場のみなさんの質問や普段感じていることをお聞きして、温かな時間を過ごしました。

頑張ったらごほうび、無理はしない。声を出す、抱えない、などなどがんと生きていく上で大切なココロの持ち方をみなさんと共有できました。

また北海道、また違う地域でも一緒にお話しをしに出掛けたい、と古村さんもおっしゃっていました。伝えたいことがたくさん、あります。

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