<南風>終わりと始まり

 答えがない疑問や別に考えなくてもいいことをひたすら考えもやもやし、そうして湧いてくる自分の感情に浸る時間が好きだ。

 例えば最近よく考えるのは、私は常に「終わり」に生かされているなということ。今日という日に終わりが無いとしたら…とすると、きっと「一日」という単位そのものも無いのだろうけど、今日はこんな日だったなと振り返ることもなく、ただただ終わりなき一日を過ごすのはきっと地獄だろう。うれしいことや楽しいことが終わるのはどこか寂しさや名残惜しさがあるが、それ以上につらいことや悲しいことに直面した時、その事柄やその一日に終わりがあるからこそ乗り越えられる感覚がある。

 本や映画、音楽も終わりがあるからこそストーリーや抑揚を好きだとか嫌いだとか言えるわけで、終わりがない映画をおのおののタイミングでテレビの電源を切ってしまっては何とも面白みがない。ちなみにテレビの電源を切った時点で強制的な「終わり」を生み出したことにもなる。この世は「終わり」にあふれている。むしろ「終わり」しかないと言っても過言ではない。

 「終わり」と、その対義語とされる「始まり」は本当は区別できない一つのものだと思う。一秒一秒、いやそれよりもさらに細かい単位で過ぎていく時間も常に始まって終わって、終わって始まってを繰り返している。そう考えると、何かの発生と消滅という事象は、きっと区別する必要も、わざわざそれを言葉で表現する必要も無く、これはただの人間の言葉遊びなのかもしれない。それでも、私は今日も終わりに向かっているという実感があるからこそできていることがたくさんあるのだから、この言葉遊びには感謝したい。

 で、つまりは何? と言いたくなるようなこんな思考も、終わりがあるからこそできるものだ。終わり。

(岩倉千花、empty共同代表)

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