大ケガからプロへ。困難を乗り越えた福島ユナイテッドMF粟野健翔の「逆転劇」

J3福島ユナイテッドFCのルーキーMF粟野健翔は、静かに闘志を燃やしていた。

昨季は特別指定選手で10試合に出場。デビュー戦のアウェー愛媛FC戦では先発出場を果たし、持ち前の技術の高さでチームの攻撃を活性化した。華やかな舞台に立った福島のホープだが、プロ内定を勝ち取るまで苦難の道を歩んできた。背番号38が辿ってきた軌跡を追った。

世代別代表でプレーした久保建英の衝撃

山形県上山市出身の粟野は、かしのき幼稚園年中から西一サッカースポーツ少年団でボールをけり始め、上山市立東小(現・宮川小)2年次にJ2清水エスパルスMF神谷優太を輩出したSFCジェラーレで本格的にサッカーを始めた。小学4年から6年までMalvaサッカースクールにも通い始め、サッカーに打ち込んだ。

小学校を卒業してからは宮城県に所在するベガルタ仙台ジュニアユースへと入団。粟野は「きっかけはレベルが高いところでやりたいというのが一番にありました。東北ではベガルタが強かったですし。そして同じ山形県出身の縄靖也くん(北海道十勝スカイアース)もベガルタに通っていた事例もありましたので、親も協力してくれました」と振り返った。

ただ隣県の強豪クラブに挑戦した粟野は、セレクションから衝撃を受けたという。「セレクションは落ちただろうなと。(周りの選手の)レベルがすべて高すぎて…。お父さんも受かると思っていませんでした(苦笑)」。入団当初は周りについてくことだけで精一杯だった。当時約155センチの小柄な身長のため、周囲の体格差に苦戦を強いられた。

それでも粟野のチャンスメイク能力や、機を見てしかけるドリブルは光るものがあった。

中学1年次のナショナルトレセンへの推薦を機に、中学2年次はU-14日本選抜に選出された。「(U-14日本選抜は)最初の集合場所が大阪のJ-GREEN堺だったんですけど、緊張しすぎて昼ご飯を食べられませんでした(苦笑)。ネットとかで知っていたJ下部の選手たちがいて怖いなと思っていました」と粟野。日の丸を背負う精鋭たちに圧倒されていた。

その中でもFC東京U-15むさしの平川怜(現J2ロアッソ熊本)、セレッソ大阪U-15の鈴木冬一(現スイス2部ローザンヌ・スポルト)は別格だったという。「あの二人は次元が違いました。まず平川はボールを取られないし、中盤から一人で全部持っていけるから、イニエスタを見ている感じでした。冬一は小さいけど、フィジカルが凄すぎてゴリゴリといける。あのときにはほぼ完成されていたと思います」

代表ではW杯カタール大会に出場した久保建英(現スペイン1部レアル・ソシエダ)ともプレーした。飛び級の天才は育成年代でも別格の存在だった。

「久保建英はメンタルが相当強いなと思いました。ウズベキスタン遠征に行ったときに、得点を取れなくてめっちゃ泣いていたのを覚えています。僕はみんなすごいから尊敬の感じでプレーしていました。でも久保建英は俺がやってやるというメンタリティだったから、その時点で自分との差はついているなと思いましたよ。(当時から)パス、ドリブル、判断も凄かったけど、いまは守備も上手くなった。やばい選手だと感じましたよ」

その後も粟野はU-15、U-16日本代表に選出されるも、公式戦のピッチには立てなかった。

ユース昇格後は優れた攻撃センスでチームのチャンスメイクを担ったが、課題のフィジカル強化にも励んだ。「毎年監督が変わっていった」と3人の監督から指導を受けた。高校1年次は越後和男監督から走力強化をメインに走り込みを指導された。「当時はなんで走れと言われていたか分からなかった」と振り返るも、後に走力の重要性に気付いたという。

高校2年次は後にトップチームを率いた原崎政人監督が指揮を執り、ポゼッションスタイルのサッカーを学んだ。高校ラストイヤーとなる3年目は壱岐友輔監督の下で指導を受けた。

「壱岐さんは高体連かって思うぐらい走りました(笑)。1週間走るだけの週もありました」

走っている途中で肉離れになった選手もいたほど。また泉区内のダム周辺を走り込み、約200メートルの坂道ダッシュを10本に、60分のハーフゲームもこなした日もあったという。それでも「当時は超嫌でした(苦笑)。いま思うと走れるようになったから、あの時走って良かったです」と感謝を口にしていた。

さらに食事トレーニングも過酷なものだった。寮の食事は朝400グラム、夜800グラムの白米を平らげなければならなかった。「ご飯を盛るときは量りがありまして、コーチがしっかり800グラムのご飯を食べたか確認していました。ただユースではかなり走っていましたので、その分食べて強くなれました」と粟野。弱点だったフィジカルの強さや体力面などをユースで改善した。

ユース時代は世代別代表にも選出された技術の高さはプロも評価していた。トップチームの練習に参加して、プロの選手たちと汗を流すこともあった。

中でも印象的だった思い出は、プロ選手たちの姿勢だった。「水野晃樹さん(現J3いわてグルージャ盛岡)、六反勇治さん(現J1横浜FC)、石川直樹さんは人間性が素晴らしかったです。僕のような高校生に声をかけてくれて、気遣ってくれました。あと茂木(駿佑)くん(現J3愛媛FC)も挨拶したら返してくれますし、スパイクも頂きました。(デビュー戦の)愛媛戦でも挨拶しましたよ」と振り返る。

トップチームの練習参加で、ユース生に冷たく当たる選手も珍しくないJリーグの中で、誰に対しても気さくに声をかける選手たちの人間性に粟野は憧れの感情を抱いた。

「姿勢がかっこいいなと思いました。自分もプロの立場ならそういったかっこいいことをしたいなと思いましたね。大学では後輩からイジられていますけど、先輩らしくしていない方がいいかなと(笑)」

高校で抱いたプロの姿勢をいまも粟野は大切にしており、誰に対しても謙虚で誠実な姿勢は先輩、同期、後輩問わず仙台大サッカー部で慕われている。

だが高校最終学年で奮闘するもトップチーム昇格を果たせなかった。進路を考えていた矢先、ある試合で粟野は衝撃を受けた。仙台大との練習試合で0-9と大敗したのだ。「これはやばいなと思いましたよ。仙台大に強いイメージがなかったので、これは強すぎる」と目を丸くしたという。

進学先と見定めていた関東学生リーグ1部のチームに練習参加したが、不合格に終わった。「関東2部のチームに行くなら仙台大に進学すると決めていました」と衝撃の大敗を喫した大学へ進学した。

仙台大学時代、松尾佑介や嵯峨理久との出会い

大学入学後は衝撃の連続だった。今冬にJ1浦和レッズからベルギー1部KVCウェステルローへと期限付き移籍したスピードスターMF松尾佑介が在籍していた。大学時代はJ2横浜FCの特別指定選手として21試合6得点5アシストでJ1昇格に貢献。「松くんは一緒にいても真似できないと思いました(笑)。スーパーなのは分かっていたけど、プロへ行って改めてすごいと思いました」と振り返った。

昨年の全日本大学選手権3回戦国士舘大戦では、後輩の応援のため松尾が会場に駆け付けた。久々の再会に「雰囲気がスターのオーラがあったのですごいなと思いました」とツーショット写真を撮影するなど交流したという。

そして、いまも背中を追い続ける先輩にも出会った。昨季J3ベストイレブンに輝いたMF嵯峨理久(J2いわきFC)とは大学時代に切磋琢磨した。「1年のころから理久くんに面倒を見てもらっていて、一緒に自主練もしました」。常に全力で練習に取り組む嵯峨の姿勢に「こういう人がプロになるんだと思いました」と憧れを抱いていた。

4年次に福島ユナイテッドで特別指定された際、ピッチ上で偉大な先輩と再会を果たした。昨季J3第8節いわきFCとの福島ダービーで対戦するも、0-1で惜敗した。「一緒のピッチで先輩と戦えてうれしかったです。また戦いです。僕らがJ2に行ったら喜んでくれると思う」と笑みを浮かべた。プロになっても偉ぶらず、気さくに声をかけてくれた先輩の謙虚な姿勢に感嘆したという。

そんな後輩のプロ入りに、先輩も喜んでいる。嵯峨は「健翔は本当に狭いスペースでのプレーがうまいと思います。昨シーズンの福島ダービーで戦ったときも厄介でした。また戦うことが楽しみです。来季はともに福島を盛り上げていきたいです」とエールを送った。追いかける粟野、突き進む嵯峨。福島ダービーでの再戦を互いに渇望していた。

だがプロ入りまでの道のりは困難なものだった。大学1年の冬、ベガルタ仙台ユースとの練習試合で右ひざ前十字靭帯完全断裂と選手生命が危ぶまれる大ケガを負った。

「あのときは、寒かったですね。筋トレして疲労が溜まっていたと思います。5分5分のボールから相手のスライディングをよけて着地した瞬間、(靭帯が切れた)音が聞こえたので、終わったと思いました」と粟野。育成年代で日本代表に選ばれた俊英の未来に暗雲が立ち込めた。

モンテディオ山形の選手も診察を受けているという山形県内の病院で治療を受けてリハビリに励んだ。「リハビリも楽しくやれていたから、復帰するまではネガティブではなかった」と気丈に振舞うが、大学2年の3月に復帰を果たすほど長い時間を要した。

復帰後は再発のリスクに悩まされた。「復帰して自分のひざじゃないって感じがしました。敵がいる(コンタクト)スポーツですから再発が怖かった。もう敵にパスを出すぐらい怯えていました」。復帰後も小さなケガを繰り返し、Iリーグの全国大会出場も逃した。

ケガと復帰を繰り返して、定位置を奪取できなかった。「大学4年になって(卒業後は)サッカーをしないと思っていました。ちょっとずつ就職活動を始めていましたからね」と振り返った。次第に目標のプロ入りも諦めるようになった。

憧れの舞台に辿り着けないと諦めていた矢先、思わぬチャンスが舞い込んできた。福島ユナイテッドから練習参加の打診が届いた。「たまたま人数が足りなかったから呼ばれたと思うんですけど、あのとき呼ばれて良かったといまでも思います」と周囲を驚かすようなキレのあるチャンスメイクと技術の高さで強化部の目に留まった。

この練習参加を機に、プロ内定を勝ち取った。「大学の試合も出場していないし、選抜にも選ばれていない自分が逆にいいのかなと思いました。ケガした分、ご褒美をくれたのかな」と粟野。プロ内定の吉報は喜びよりも驚きが大きかった。「いままで両親がやってきたサポートが大きかったです。プロになれて、まず一つ恩返しができて良かったです」と笑みをこぼした。仙台大サッカー部では12年連続でのJリーガー輩出となった。

福島ユナイテッドFCで、プロとして

周囲から祝福を受けた粟野だが、「試合に出てなかったからどれだけやれるかというイメージができてなかったです。自分の物差しがなかった。とにかく大学は苦しい時間が多くて、大学の試合に出ていなかったから(プロから)声がかかるはずがないと。どこかに練習参加してプロになろうってメンタルではありませんでした」と吐露。しかし、福島ユナイテッドは粟野の実力を正当に評価していた。

福島の玉手淳一強化部長は「仙台大学と良好な関係を築いている中で、3月の練習試合に練習参加してもらいました。その際に、ボランチでプレーし、プレー回数も多くとにかく量も動け、繰り返してプレーできる所が気になり、その後も練習参加してもらいました。チームの中でも違うアクセントになれるプレーヤーとして評価し、監督、現場スタッフと話し合い、来季加入内定と特別指定選手の登録を決めました」と獲得の経緯を説明。

正確なポジショニングと足下の技術の高さを駆使したチャンスメイクに、危険と分かればプレーをやり直す優れた判断力。福島の慧眼は才能を見逃さなかった。期待の戦力として大学生ながらチームに迎い入れられた。

チームは年齢層が近い選手が多かったことから、すぐに溶け込めた。ただ大学サッカーとプロサッカーの違いも体感した。「パスコン(パス&コントロール)から緊張感があって、試合の本気度も違いました。お金をもらってサッカーをしますから、より意識を高くしてプレーしないといけない」と粟野。そして合流してすぐにプロデビューを果たした。昨年4月29日のアウェー愛媛戦で先発出場した。

雨の中、行われた試合。背番号38番は「準備はしていました。愛媛はすごいチームだから緊張していたけど、ボールに触ったらきょうは行けそうだなと思えて楽しかったです」と強心臓のプレーを披露。ボールが渡れば素早く前線につなぎ、リズムを取りながらパスを全体に紡ぐようにしてゲームを活性化させていく。

「高校のときにサテライトでプレーしたこともありますが、プロとしてスタジアムでピッチに立てた。心地良かったです」

チームは引き分けに終わるも、大きな成果を手にした。

プロデビューを果たすも出場した10試合の内、途中出場が7試合だった。プロで生き残るため、試行錯誤を繰り返している。

プロになって不慣れなボランチを任されるようになったが「いままでシャドーをやってきたので、今年からボランチになって見える景色が変わりました。トップ下ならこうすればこうできるってイメージはありますけど、ボランチは景色も違って受ける位置が変わります。課題は中盤の底でのゲームメイクなので、周りとの関係が大切です。まずは気が利く選手になって、守備は一人目から激しくいけるようにしたい」。繊細なプレー感覚を持つ粟野にとって、異なる位置でのプレーは苦労が絶えなかった。

それでも前を向いて努力を続け、憧れの選手からヒントを得た。

「小さいころから見続けてきた香川真司選手のように間で受けて、ターンしてスルーパスを決めて、(ゲーム)作りにも参加できるようにしたいです。イメージは香川選手がボランチをやっている感じです。ゴール前では自分の強みを生かして、中盤の低い位置でも良さを出してボールに触ってテンポを作っていきたいです」

デビュー戦のようにハイテンポを作り出すプレーを洗練する構えだ。粟野は自身と同じ中盤の底からリズムを作って攻撃を活性化させるJ1横浜F・マリノスMF渡辺皓太、イタリア1部SSCナポリMFスタニスラフ・ロボツカを見本としている。「渡辺選手のように気が利くポジショニングを取るプレーや、中盤から飛び出すプレーは相手も捕まえづらくなります。ロボツカは中盤からドリブルで入るプレーが印象的です。それをするために運動量をつけていきたいです」。さらなる成長のためにトッププロ選手の動きを見て学んでいる。

プロを経験して大きく成長した粟野。大学では視野を広げる経験ができた。

「仙台大でサッカーをやれて良かったと思っています。まず大学はサッカーだけじゃありませんでした。高校はサッカーだけやっていたからサッカーだけの人生になっていたかもしれない。だから違う視野をもらえました。人とのつながりも多くなるし、大学生は時間があるから遊びからも学べました。僕はアウトドアが好きなので、キャンプとか山登りを経験して、サッカーだけじゃない視点になりました」

幅広い視野を得て、人として成長した。

これまで負傷により昨年冬開幕のインカレ(全日本大学選手権)まで、粟野は全国大会に一度も出場できなった。それだけに大学最後の全国大会に挑むメンバーに選ばれた粟野は燃えていた。初戦に九州産業大を4-1で粉砕し、2回戦では優勝候補筆頭の関東王者である明治大と延長戦の末2-1で破った。3回戦は夏の全国王者国士舘大に0-3で敗れるも、粟野はチームの8強進出に貢献した。

「大学4年のインカレは初の全国大会なので出たいと思っていました。2回戦の明治大を倒したときは一番うれしかった。全国大会は初戦でミスをして失点してしまいましたが、明治大戦ではやらなければいけないと思っていた。守備の部分でアグレッシブにいけたので、関東の強豪でもやれたことに手応えがあって、ちょっとずつ成長している実感を持てました」と振り返った。大学最後の大会で結果と手応えを得た粟野は、充実した表情を浮かべていた。

大学サッカーを引退した粟野は「僕らの学年は(トップチーム所属が)5人しかいなくて、(周囲から)やばいと言われていました。それでも人数が少なかったことで仲良くやれたことが大きかったと思います。一つ下の学年は個性が強いやつらが多かったけど、仲良くやれて良かったです。

後輩が『大好きな4年生のために勝ちたい』と言ってくれたことはうれしかったし、後輩の力も借りて8強に入れました。今後の人生でも、サッカー人生で最高の思い出になったと思います」と、これまでともに戦った同期や後輩に感謝していた。

ユースの同期であるMF工藤蒼生、FW菅原龍之助(ともにJ2ベガルタ仙台)、DF山下諒時(J3・SC相模原)が粟野とともにプロ入りを果たした。

「みんな一度離れ離れになって、みんなJリーガーになれたこと、またプロで戦えることは感慨深いです」と粟野。オフに高校でともに戦った同期たちと再会してプロで戦う楽しみがまた一つ増えたという。またジュニアユースでチームメートだったDF志村滉、明成高校サッカー部所属でクラスメートだったMF濱名真央(ともにJ3松本山雅FC)との対戦も楽しみにしていた。

新シーズンを控える粟野は静かに闘志を燃やす。「来季の目標はデビューした当初に出場機会がなくなって苦しいときもありました。プロとして自信と自覚を持って試合に絡んでいきたいです。キャリアの目標はサッカー選手のキャリアが例え長かろうが、短かろうが、1年、1年を全力でやる。僕はただキャリアが長ければいいと思っていないので、その年、その年を全力でプレーしたいです」と力強く抱負を語った。

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これまで多くの苦境に立たされたが、それでも悔しかった経験を力に変えて夢を実現できた。昨年プロの世界で健闘した期待のホープは、さらなる成長を遂げて今季を全力で翔け抜ける。

粟野健翔

2001年1月5日生まれ(22歳)
福島ユナイテッドFC所属

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