年賀状は願いを込めた小文学作品

牛島信弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・「年賀状は願いを込めた小文学作品」という見出しで、私は一文を書いたことがある。

・去年の2月から書いていた『石原さんとの私的思い出』が本になることになった。

・これからは、しばらく小説を書いてみようと思っている。どんな芽を出すのか、我がことながら愉しみである。

年賀状は願いを込めた小文学作品」という見出しで、私は一文を書いたことがある(『日本の生き残る道』(幻冬舎 2022年刊・272頁)。

1997年、平成9年にこんな年賀状を出した。

――新年おめでとうございます

年頭にあたり皆々様の御健勝をお祈り申し上げます。

昨年のご報告を一、二、申し上げます。

春、ロンドンに出掛けました。何故かこの街ではいつも美味しい紅茶を飲みながら、窓の外のロンドン・ブリッジを眺めつつ「ロンドン橋の架け直し」の歌を歌っていたのですが、実はタワー・ブリッジだったらしい、と後で分かりました。

初夏、長良川に行きました。卒業して三十年、大きく変わった体形と少しも変わらない心での高校の同窓会です。首に縄を付けられて魚を追う鵜は、実は船の上にいるのだと思うと、物悲しくもある一晩でした。

秋、ニューヨークに一週間いました。昔馴染みの五番街に、この二十年の歳月が思い返され、月並みですが「初心忘るべからず」と自戒しました。

毎晩。十四年前に買って放り出していた谷崎潤一郎の全集が引っ越しの時出て来、去年の正月休み以来ベッドの中で少しずつ読んでいます。最晩年の巻から読み始め、今は三十歳台の後半の作品に入りました。

毎朝。相変わらず、東京駅の階段を駆け上がっています。エスカレーターを歩いて昇ると、日によって段数が違うので、体調が数字になって分かります。

そして。今年は年男です。

何卒本年も宜しくお導き下さいますようお願い申し上げます。――

『ロマンチックな国際結婚とその宿命』

前年、1996年、平成8年に私はロンドンに行っている。ノルウェーの船会社の日本支店で起きたトラブルについて、ベルゲンというノルウェーの街に本社のある親会社の首脳とのミーティングのためにロンドンに出かけたのだ。

ロンドンでこんなことがあった。

「先生、飛行機が朝早く着いてしまったので、とにかくホテルまで行きましょう。チェックインだけして、それから外へ出てお茶でも飲んで時間を過ごすというのはどうですか?」

二人で成田を旅立ったイギリス人のビジネス・パーソンが、飛行場からのタクシーのなかで私に話しかけた。

「いいですね。早朝のロンドンでモーニング・ティーとは、そいつは洒落ているじゃないですか。」

私は間髪いれず、応じた。

インターコンチネンタル・ホテルに荷物を預けた二人は、早朝の冷たいロンドンの街へ繰り出した。そして、私は10分後には「何故かこの街ではいつも美味しい紅茶」を味わっていた。小さなコーヒーショップのような、カウンターと椅子席とがある、ごくふつうの店だった。

彼は46歳であった私よりも数歳年上で、長い間日本に住んでいる白人の男性である。驚くほど流暢な日本語を話す。まったくのところ、日本人と話しているのと同じくらいに滑らかなのである。奥さんが日本人であると聞けば、なるほどと思いはする。しかし、配偶者が日本人であってもほとんど日本語を話さない人もいる。いわんや、長いあいだ日本にいるからといって日本語が自然に喋れるようになるものでもない。

彼が日本人の女性を妻に得たきっかけがまことにロマンティックである。

学生だった彼が金沢を旅行していたとき、兼六園へでかけ、素敵な女性を見かけたのが初まりだった。彼は一人、相手は女性の二人連れ。彼女に惹かれた彼は、運命的なものを感じ、二人の女性に話しかけた。

後に私は、彼の妻となった女性と何度もお会いしているのだが、日本人である私からみても少し西洋人的に肉感的で、日本的な愛嬌にあふれていた。絶妙なコンビネーションといったところか。

「私、生粋の江戸っ子なんですよ。江戸時代からある赤坂の米屋の跡取り娘だったんです。それが、金沢に行ったばかりにこの人と巡り合ってしまって、一緒になることになったんですよ。

米屋?米屋は番頭さんに継いでもらうことになりました。」

そうして日本語で私と話している彼女を、彼は目を細めるようにして見つめ、その妻の顔に見入っている。そのときだけ、彼が日本語で3人で話してはいても、イギリス人だと感じさせられる。日本人は自分の妻を、人前であのようにぞっこんほれ込んだ我が姿をさらすように眺めてたりはしないものだ。

だが、それはとても気分の良い光景だった。

奥さんは、亭主が自分に惚れこんでいること、それを自分が嬉しいことだと感じていることを、第三者である私の前で、少しも隠そうとしないどころか、「この人、二人連れだったのに、私ばかりに話しかけてきちゃって、私、一緒にいたお友だちに申し訳ない思いがしましたの。」

「でも、あなたも私と二人だけでのやりとりをエンジョイしていたよ。」

「そう。だから、一段とお友だちに悪くって」

日本人である彼女も、夫を見つめ返す。それは日本の妻に一般的な態度ではない。しかし、私には、二人の仲睦まじさがとても好ましかった。

私が二人を知ったのは、二人が兼六園で偶然に出逢い、彼女の側の家業の都合にもかかわらず結婚してから20年は経っていたろう。こどものない二人にはお互いだけがこの世にあって、その他のことはなにもかも二次的だったのかもしれない。

しかし、彼は有能なビジネス・パーソンだった。後に、同じ海運の世界で日本の巨大海運会社に移籍したときには、当時外人の助っ人として阪神タイガースの選手として大活躍していたバースになぞらえて、「バース級の助っ人登場」と業界ではおおきな話題になったと聞いたものだった。

ロンドンへは、そのノルウェーの船会社のために2回出かけた。二度目は、ロンドンからスタバンガという街で飛行機を乗り換え、目的地のベルゲンに向かった。あの、フィヨルド観光で名高いベルゲンである。

私はその街で、ノルウェー人の昼ご飯の習慣を知った。簡単な薄切りのパンの間にハムなどを挟んだサンドウィッチを食べながら仕事を続けるのだ。

そうやって私は親会社の首脳と日本支店から呼び出された支店長の日本人に退職を迫り、英語の合意書を即席で作って署名をもらい、弁護士としての役目を果たした。

その間、連日、私はタラを食べ続けた。滞在してたホテルのメニューにもタラがあったし、ノルウェーの方々にとっては気の重い日本支店の支店長の事実上の解任という仕事がうまく運んで、上機嫌の会長さんが「先生、今日はお礼にご馳走したい。」と言われて連れて行ってくれたレストランでも、当たり前のようにタラのバター煮のようなものが食膳にのぼった。

私はタラが嫌いではない。しかし、ベルゲンの街で毎日のようにタラを食べてから後、あれほどタラを食べたことはない。今では、ときどき食べ、食べるたびにベルゲンの街でケーブルカーに乗って山頂の公園に行ったことを思いだす。目鼻を誇張した顔の人形がベルゲン土産として売られていたが、私は買わなかった。フィヨルドを訪れる時間はなかった。弁護士の出張というものはそんなものである。

二度目のロンドン出張から何年後のことだったか、私は彼の奥さんから電話を受けた。

「先生、聞いてください。亭主が突然に別れたいと言いだしたんです。相手は白人の女性なんですよ。やっぱり、国際結婚の末路ってそんなものなんでしょうかね」

私は彼女に彼と話してみると約束し、彼と会った。

彼は私に、「先生、お手数をかけて済みません。私は、彼女に会って、ここにこそ人生があると感じてしまったんです。妻には申し訳ないと言うしかありません。」

幸い弁護士としての出番はなかった。

その後、彼からは妻と二人でロンドン郊外に自宅を自分で造っているという便りがあった。

「ああ、イギリス人の最高の趣味は、文字通り、自分の手足を使って自宅を作りあげ、そこに住むことだって読んだことがある。イギリス人の文化、伝統か。そういうことが新しい女性との出会いの背景にあったんだな。」

と、私は新しい人生を謳歌している彼の前途を祝いたい気持ちで一杯だった。

『孵らなかった芸術家の卵の思い出』

初夏の長良川への旅は泊りがけだった。何十人かの同窓生が集まった。そのなかには、もう、十人をもって数えるほどの物故者がいる。鷗外の『扣 鈕(ぼたん)』に出てくる「エポレット輝きし友 黄金髪揺らし乙女」たちは、みな老い、死んだ者もいるということである。

一人の友人がいた。いまでいうイケメン、昔でいう二枚目、それも甘い感じのマスクの男だった。長めの前髪を左から右に流している姿がなんともかっこうが良かった。山岳部に入っていて、太宰治が好きだと言い、手の形を何種類もの彫塑にして美術展に出したりしていた。私に、「もう読み終わったから」と芥川の『黄雀風』の文庫本をくれたこともあった。

ともに浪人生として上京した。夏に広島に帰ると、もっとも繁華な通りを歩いていて出逢うことが何回もあった。東京に比べれば、どこも狭い町なのである。出逢うたびに当たり前のように喫茶店に行き、一杯のコーヒーで長い時間を過ごしたものだった。当時、広島の喫茶店はコーヒーを飲み終わると緑茶をサービスしてくれた。それも、客が店を立つまで何杯も何杯も。

タバコを高校生のころから吸っていて、一度なぞ、喫茶店で口にくわえたタバコめがけて私が輪ゴムを伸ばして打ったことがある。輪ゴムは見事に的にあたり、タバコが弾け飛んだ。「なにをするんならい!」と怒った彼は広島弁で叫んだ。どうしてそんなことをしたのか。もちろん忘れているが、たぶん、いかにも美味しそうに唇の間にはさんだタバコを吸い、煙をゆっくりと吐き出す動作にいたずら心をそそられたのだろう。

一浪してまた東京芸大を受けた。合格発表の前の晩、3、4人の友人が彼のアパートに集まり、電気ゴタツを囲んでワインを飲んだ。ワインといっても彼が自慢していた一升瓶入りのもので、その晩は雪が降っていたので窓を開けて雪のなかにねじ込んで冷やした。窓を開けて摘まみ上げるとグラスに注ぎ、また外の雪のなかに放り投げるように立てる。

一人、一橋に合格が決まった男がいて、皆の前でくわえタバコのまま、入学書類を書いていた。

一晩中起きていた。眠いままに、皆で彼の合格発表を見に行こうということになって、

「どうせ通っとるわけなんかないわい」と言う彼に、「そりゃ、見てみにゃわからんよね」と声をそろえて急き立てるようにして国立の駅から上野の駅へ向かった。上野の駅から東京芸大への急な坂道を登ったことを、なぜかよく覚えている。

彼の番号はなかった。

「そりゃそうじゃ、途中で出てきたけえの」と言いだした彼に、皆して「えー、そんじゃな無駄足に決まっとるわい」

と、わいわい騒ぎながら上野駅で解散になった。

彼は、「わしは国立は嫌いじゃ」と言っていて、結局、或る私立の芸術大学に入り、抽象彫刻のようなことをしていた。一度展覧会を観に行ったら、膨らませた、両手で抱えるくらいの大きさの色とりどりのポリエチレンの袋の一端を床に貼りつけた芸術品が置かれていた。

未だ学生だったころのこと、彼は学生運動に熱中し、バリケードの中に寝泊まりするようになっていた。

「桃屋の海苔の佃煮はほんまに便利よのう。あれと電気釜があれば、他になにもいらんけえ」と言っていたが、私は白髪が増えているような気がした。

そのバリケードを機動隊に襲われて電気釜を置いたまま逃げ出した直後のこと、私は恋人とともに彼の同じアパートを訪ね、彼に恋人手製の料理を振舞ったことがあった。小さな台所で腕が十分に振るえたものかどうかわからないが、それでも、ハンバーグだったかの料理を、「こんなもん、何年ぶりかのう」と嬉し気な様子でパクついてくれたのを覚えている。電気釜がなくなってからはインスタントラーメンばかり食べていたという。

大学を出てからは専門学校の講師などをしていたが、そのころには付き合いもなくなり、結局広島に戻って父親のやっているハンコ屋を継ぐということを聞いた。

長良川で会ったのは、久しぶりだった。もともと髪は白かったのが完全に近い白髪になっていた彼と近況を話し合った。広島一の銀行の仕事を一手に引き受けているので仕事はなんの心配もない。贅肉がついた体にあいかわらずアルコールを注ぎこみながら、「今は宅急便があるけえ、お前のところでハンコがいるようだったら頼んでくれや」と、昔と同じ遠慮のない調子で話した。弁護士だから会社の設立をするたびにハンコは必ず入用だったから、何回か頼んだものだった。しかし、自分で直接そうしたことまでしなくなってしまって、そのうちに立ち消えになってしまった。

長良川で、皆で船に乗って鵜飼を観ていると、花火を売るべく船が近づいてきた。「おう、花火か、ええのう」と言って、彼は何千円かを花火に費やし、川の水面の上で火のついた花火を振り回し、「ええのう」と喜んでいる。その姿は、すっかり中小企業のオヤジになりきっているように見えた。ああ、商売人らしく金回りがいいのだな、と私は感じた。

しばらくして、肺ガンになったが手術して治ったと聞いた。それが、その2年後、鹿児島に遊びに行っているときに倒れ、そのままになったと間接的に聞いた。

人生の一時期親しく付き合い、その後会うこともなくなっていた男だった。そうした付き合いだった彼が亡くなったと聞いて、私は自分の人生のある部分が剥ぎ取られたような気分になったのを覚えている。

(付)去年の2月から書いていた『石原さんとの私的思い出』が本になることになった。いつものように幻冬舎から出してもらうのだが、今回は一段と感慨深い。

それは、4月、見城さんに石原さんについて書くように強く使嗾されるということがあったからである。見城さんには、私の初めての小説『株主総会』を1997年7月に出してもらった。その年の4月以来の付き合いである。石原さんとの出逢いも見城さんのおかげだったことはこの本のなかでも書いている。

これからは、しばらく小説を書いてみようと思っている。年賀状がその種である。どんな芽を出すのか、我がことながら愉しみである。

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出典:JGalione / getty images

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