アフリカ人留学生はなぜロシア兵として死んだのか 故郷タンザニアで触れた「真実」、軍事会社「ワグネル」の影

 タリモの遺影を見つめる叔母のホシアナ(左)=1月29日、タンザニア南部トゥクユ

 ウクライナ南部クリミア半島に近いロシア南部の町の教会で撮影されたとみられる動画が今年1月、交流サイト(SNS)で拡散すると、アフリカ東部タンザニアの人々に衝撃が広がった。動画には葬儀の様子が収められていた。荘厳で悲しげな音楽が流れる中、明かりを手にした戦闘服姿の男性らがひつぎに寄り添う。ひつぎに置かれた遺影は、ロシアに留学していた30代のタンザニア人、ネメス・タリモのものだった。

 タリモはロシア側の兵士としてウクライナ東部の激戦地に立ち、命を落としたという。遠い異国に渡った学生がなぜ兵士となったのか。その秘密に少しでも触れたいと思い、葬儀を終えたばかりのタリモの故郷を訪れた。そこで浮かんだのは、ロシアの民間軍事会社「ワグネル」の存在だった。(敬称略、共同通信=菊池太典)

 ▽ロシアに留学した「一族の星」

 1月29日、タンザニアの最大都市ダルエスサラームから飛行機で南部の中核都市ムベヤに向かい、そこから1時間ほど車で南下した。山あいの道をうねうねと進むと左右に深く鮮やかな緑の茶畑が広がっていく。マラウイとの国境にほど近いトゥクユという高台の町がタリモの故郷だ。

 移動中、不安な気持ちにとらわれた。タリモの遺族が見ず知らずの日本人記者の取材を受けてくれるのか、確信が持てなかった。しかし同行してくれた地元ジャーナリストは「心配ない」という。遺族は彼の死に強い怒りを感じており少しでも多くの人に悲劇を伝えたがっている、というのが理由だった。

 タリモはウクライナ東部の激戦地バフムトで昨年10月24日に戦死したという。遺族はタリモの死を知るとタンザニア政府やロシア大使館に掛け合い、遺体を取り戻していた。私が訪れたのはトゥクユで葬儀が執り行われた翌日だった。車を降りて畑の中の道を5分ほど歩くと生家が見えてきた。タンザニア全土から集まった数十人の遺族が残っており、少し疲れた雰囲気で所在なげに庭に座り込んでいた。

 タリモの故郷、タンザニア南部トゥクユの風景=1月29日(共同)

 私は歓迎されたようだ。遺族たちはしばらく相談した後、タリモの叔母に当たるホシアナ(52)が代表して取材を受けてくれることになった。ホシアナは問わず語りでタリモをしのんだ。

 「一族の星でした。幼少期はやんちゃで困ったのですが、学校に上がってカトリックの教えを学んでからは落ち着いて、成績も素晴らしかった。ダルエスサラームで勉強させることにして、本人も期待に応えて大学で商学を学びました。卒業後は石油会社で働きながら留学を目指し、ロシア大使館を通してロシアにある大学院の奨学金を勝ち取ったんです」

 タリモの死に憤る叔母のホシアナ=1月29日、タンザニア南部トゥクユ(共同)

 ▽薬物で服役、遺族は「何かの間違いだ」
 20世紀後半の一時期に独自の社会主義政策を掲げたタンザニアは、旧ソ連時代からロシアと関係が深い。若者にとって、自国よりも経済的にはるかに発展するロシアへの留学は成功に近づく道の一つだ。タリモはビジネス関連の分野で修士号を取り、2010年代後半に帰国した。

 その後はロシアとタンザニアを往来しつつ、ダルエスサラームの選挙区から野党の下院議員候補としての出馬を目指して政治活動を行った。しかし一歩及ばなかったという。さらに経歴に箔を付ける必要があると考えたのだろうか。2020年9月に「博士号を取る」と言い残し、再びロシアを生活拠点に定めた。

 ホシアナが生前のネメス・タリモに会ったのはそのころが最後だ。「勉強に集中していると思っていた」と振り返る。それが今年1月、ワグネル兵となったタリモが戦死したとの情報がネット上に流れていると知り、卒倒しそうなほど驚いたという。しかも違法薬物に関連する罪を犯して懲役7年に処され、昨年3月から服役中だったとの報道も出てきた。

 ホシアナは「何かの間違いだ」と言い切って続けた。「だってネメスは敬虔なクリスチャンなのだから」

 タリモの葬儀のため集まった親族ら=1月29日、タンザニア南部トゥクユ(共同)

 ▽「どうしても伝えたい」と別の親族は打ち明けた
 身内とはいえ、遠く離れた地で暮らす30代男性の生活を把握することはできないだろう。ロシアの軍事会社ワグネルは、恩赦の約束と引き換えに囚人を勧誘しウクライナに派遣しているとされる。話の流れから、タリモが銃を手に取った理由は明らかのように思えた。一方で一族の出世頭を信じたいホシアナの気持ちもよく分かる。そんなことを考えながら、弔意を伝えて生家を辞した。

 車に戻る途中、案内でついてきてくれた若い親族の男性が、家から十分に離れたのを見計らったように話しかけてきた。「ネメスのために私の知っていることをどうしても伝えたい」。男性の話はこうだった。

 「ネメスは昨年10月に戦死する直前、私に短い電話をかけてきてワグネルの兵士になったと告白しました。信じられませんでした。ウクライナでロシア兵に多数の死者が出ていることを知らないのではないかと疑いましたが、どうやらそうではないらしい。思い詰めた様子で『どうしても恩赦を受けて自由にならなければいけない』と言っていた」

 なぜ焦って捨て身の判断をしたのか。男性は電話をした時には分からなかったが、遺体とともに遺族に引き渡された書類を見て、タリモの「真実」の一端に触れた気がしたという。書類には遺品の相続人についての記述があり、タリモの子どもの名前が記されていた。

 ▽侵攻がもたらした悲劇の一つ

 ネメス・タリモの遺影=1月29日、タンザニア南部トゥクユ(共同)

 男性は話を続けた。「数年前にネメスからロシア人の恋人のことを聞いたことがあります。その恋人との子どもならば3歳を超えていないはず。きっと子どもと彼女のことを思い刑務所から出られるチャンスに賭けたのでしょう」。

 年が近く気安かったというタリモのことを、男性もホシアナと同じように「一族の星」と呼んだ。身内の期待と自らの野望を背負って渡った異国で何らかの挫折のうちに身を持ち崩し、最後に破滅した。そんな悲しい男の姿が浮かんだ。

 もちろん本当のことは亡くなった本人にしか分からない。それでも、恩赦への希望にすがり命を落としたタリモと、ロシアのウクライナ侵攻がきっかけで親を失った多数の子どもたちの1人として今もロシアのどこかで暮らすだろう彼の遺児のことを思った。

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