パリで活躍したデザイナーが「ときめいた」のは、伝統が途絶えかけた秩父の絹織物だった 光の当て方で表情の変わる美しい生地、まゆからワンピース製造まで一貫生産

井深さんがデザインした洋服

 かつて養蚕・絹産業が盛んだった埼玉県秩父市で、養蚕農家と生地職人、服飾デザイナーの3人が連携し、伝統的な絹織物「秩父太織」の洋服を製作している。展示会で受注を受けてから製作に入り、販売する形で、一連の工程が一つの地域で完結するのは珍しい。
 デザイナーの井深麗奈さんは、パリで活躍。生粋の素材好きだ。きっかけは、光の当たり方や見る角度で表情が変わる生地に「ときめき」を感じたこと。原料となる繭を作る養蚕農家が年々減少の一途をたどり、秩父太織の職人も一時ゼロになるなど、秩父太織を巡る状況は厳しい。自然豊かな秩父の地で試行錯誤を続ける。(共同通信=当木春菜)

秩父太織の職人北村久美子さん(左)、養蚕農家の久米悠平さん(右)と意見交換する服飾デザイナーの井深麗奈さん

 ▽秩父の伝統織物は江戸時代が起源 

養蚕農家の久米悠平さん
秩父太織の職人北村久美子さん

 2022年8月、秩父の山々を臨む井深さんのアトリエで、養蚕農家の5代目久米悠平さんと秩父太織の職人北村久美子さんが集まって意見を交わしていた。「繭がとれた時期によって糸の太さが変わっちゃう」「色つきの繭って、生地にもそのまま色が使えるの?」。アトリエ横の庭で採ったハーブで入れたお茶をお供に、生地やデザインのイメージを膨らませた。
 秩父太織は江戸時代に起源があるとされ、農家が規格外の繭を使って自分たちの衣服を作ったのが始まりだ。一般的に流通する絹布は機械でよった糸で作られるが、秩父太織は100本程度をまとめた「無撚糸」を使うため、独特のつやと手触りの良さが生まれる。
 久米さんが生産した繭から北村さんが糸を引いて生地を手織りし、井深さんが洋服に仕立てる。養蚕から製品作りまでが一つの地域で完結するのは珍しいという。

 

 ▽素材に感じたときめき
 井深さんは女性用ランジェリーメーカーで働いた後、「本場のレースを見てみたい」と1997年にフランスに渡り、各地で「ときめきを感じる素材」を集めて回った。パリで立ち上げたブランドでは、アンティークのレースや「のみの市」で見つけたカーテンなどを素材の特徴を生かしながら使った。 

 2014年に秩父市出身の夫と帰郷した後は服飾業界から離れていた。しかし、北村さんの秩父太織にパリで感じたような「ときめき」を覚え、生地の魅力に取りつかれた。立体的な艶やしっとりした柔らかさ。「こんな近くでこんな素晴らしい生地が作られているなんて」。19年にデザイナーとして再スタートした。
 北村さんの手がける秩父太織は、伝統的な作り方に、さらに北欧織の技法を取り入れたもの。北村さんは「貴重だから、ではなく、良いものだから使いたいと思われる生地を織りたい」と意欲を燃やす。井深さんによってデザインされ、意見交換をすることで課題や改善点が見つかるといい、「よりよいものにしていくことができる」と話す。
 井深さんは生地の特性を見極め、魅力を引き出しながらコートやワンピースなどをデザインする。秩父太織が盛んなころは取り入れられていた、糸の段階での「草木染」も模索する。
 井深さんが「ときめいた」理由を知ろうと、記者もアトリエで生地を手にさせてもらった。とても柔らかくて軽い。部屋に差し込む太陽の光の当たり方や、見る角度により表情が変わる。ブラウスや、肩周りの襟まで大きく秩父太織を使ったワンピースは、凹凸を反映してより一層美しく見える。洋服になることで、生地のつややかさが際立ち、上品な印象だ。

服飾デザイナーの井深麗奈さん(中央)のアトリエに集まった3人

 ▽作り手同士の近さが強みになる
 養蚕業は今、担い手不足が大きな課題になっている。農林水産省の資料によると、農家数・生産量は2011年からの10年で3割以下にまで減少した。国産生糸のシェアは0・1%にとどまる。国内の農家数・生産量の3割を占める群馬県では、養蚕農家の主な従事者は70歳以上が6割を占める。
 秩父市でも養蚕農家は2軒になった。秩父太織の職人も1960年代にゼロになり、70年代に北村さんの師匠、故石塚賢一氏が復元した。
 苦境の中、養蚕農家、生地の作り手、デザイナーの距離が近いことは大きな強みだ。久米さんは「養蚕農家として、育てた繭が洋服になるのを見られて励みになる」と語る。
 井深さんは「昔ながらの染め方で作る生地で、洋服を仕立てたい。秩父で養蚕から一貫して手作業で作る秩父太織の奥深い魅力を伝えていければ」と力を込めた。

© 一般社団法人共同通信社