「美談なんかじゃない」釜石の〝奇跡〟に違和感を抱き続けた中学生の12年 葛藤の末、受け入れたのはなぜか

岩手県釜石市で東日本大震災発生時の避難状況を説明する紺野堅太さん=2月

 東日本大震災の津波に襲われた被災地の中で、岩手県釜石市は市立小中学校の児童生徒が集団で避難し、全員が無事だった。その事実が報じられると、「釜石の奇跡」と大きな反響を呼んだが、生き延びた多くの子どもたちは知人や家族を失い、違和感を抱えていた。釜石東中学校の1年生だった紺野堅太さん(25)も、奇跡という言葉と現実のギャップに苦しんだ一人。それでも、時を重ねて大人となった今は、「奇跡だったかもしれない」と思い直せるようになった。昨年秋から、当時の様子を伝える「語り部」の活動を再開。ありのままに伝えることで将来に起こり得る災害での「犠牲者ゼロ」につながることを願っている。(共同通信=西蔭義明) 

堤防を越えて被害をもたらした津波の爪痕=2011年3月24日、岩手県釜石市

 ▽“崖崩れ”で避難、そこに津波が
 2011年3月11日、野球部だった紺野さんは校舎3階の教室で練習の準備をしていた。午後2時46分に激しい揺れ。「どう頑張っても立ってられず、よちよち歩きで机の下に隠れ、机の脚を持って揺れが収まるのを待った」
 学校は海からわずか約500メートルの場所にある。教科書も筆記用具も、野球道具も全部置きっ放しにして校舎の外へ急いだ。避難訓練の際、いつも点呼を取っていた校庭には、誰もいなかった。学校の前にある道路に目をやると、2、3年生が既に走って逃げている。一人一人がそれぞれてんでばらばらに逃げる「津波てんでんこ」はこれかと思った。
 それでも、当時の紺野さんに危機意識はまだ薄かった。「どうせ、津波が来ても1メートルくらい」。へらへらしながら、近くにいた野球部員の仲間と「部活も休みになりそうだな」と談笑しながら走っていた。
 たどり着いたのは、学校から約800メートル離れた地点だ。これまでも避難訓練で使っていた場所。隣接する市立鵜住居小学校の児童も同じように避難していた。しかし、崖崩れの兆候があったため急きょ別の場所に移ることに。紺野さんら中学生は児童と手をつなぎ、さらに高台へたどり着いた。そこで真っ黒い津波が街を破壊していくのを目の当たりにする。「家の屋根が、あり得ない速さで流されていった」。さっきまでいた避難場所も津波にのまれてしまっていた。

 

 ▽相次ぐ称賛報道に隠れた犠牲
 中学生が率先して避難し、小学生の手を引き高台に逃れた―。一連の避難行動が知れ渡ると、新聞やテレビが「釜石の奇跡」と相次いで取り上げた。一方で、当時の児童や生徒は美談にされることに強い違和感があった。中学生は最終的に児童の手を取ったが、それ以前に小学校に残っていた児童に、逃げるよう呼びかけたのは地域の人たちだった。避難途中で保護者に引き渡された児童や住民は犠牲になっており、家族や友達を失った人たちもいる。
 紺野さんも親しかった2人の先輩が亡くなった。1人は兄の同級生で「もう一人のお兄さん」と慕っていた。もう1人は同級生の姉で、自分をかわいがってくれていた。同じ中学の3年だったが、風邪で学校を休み病院からの帰宅途中に津波に遭った。釜石東中の生徒で唯一の犠牲者だった。

波で岸壁に乗り上げた貨物船=2011年3月24日、岩手県釜石市

 ▽届かない声「悲しみに目を向けて」
 紺野さんはその後、震災の経験を伝えるため、岩手県の内外で「語り部」をするようになった。そのたびに「奇跡って素晴らしいですね」と声をかけられる。紺野さんが「奇跡ではなく、防災教育を受けた成果を発揮しただけですよ」と話しても、なかなか相手には受け入れられない。「美談」から逃れられず、亡くなった先輩たちのことが頭に浮かび、内心ではうんざりしていた。「僕たちの悲しみにも目を向けてほしい」
 高校卒業後、愛知県で就職した。語り部を続けようと思っていたが、仕事の忙しさに加えて新型コロナウイルスの感染拡大も重なり、思うようにいかない。「震災をいつまで引きずっているの?」と言われたこともある。「岩手県を離れれば、世間一般にはそう見えるんだなって。こっちが『やっぱり引きずりすぎなのかな』と思うようなときもあった」
 そんな時、京都市の友人と再会した。中学校時代に「全国生徒会サミット」で知り合った仲間だ。悩んでいた紺野さんに向き合い、こう言って背中を押してくれた。
 「自分は震災を経験していないから、語れる存在ではない。それに経験した人もたくさんいるけど、語ろうと踏み出す人はなかなかいない。おまえには話してほしい」

岩手県釜石市の市立釜石東中跡近くを歩く紺野堅太さん=2月

 ▽「完璧じゃない。僕たちは“しくじり先生”」
 語り部を再開するため、用意したプレゼンテーションソフト、パワーポイントの枚数は70枚を数えた。避難したときの気持ちなどを思うままに連ねたものだ。ところが、会社で尊敬する3歳上の先輩に見せると、「何が言いたいか分からん。震災を知らない俺たちを、どうしたいわけ?」と一蹴された。その時、自身の口からこんな言葉が思わず飛び出した。
 「人を助けたい」
 プレゼンテーションを、一から練り直そうと決めた。「伝えることを絞った方が人の頭に残りやすい」と知り、中学で学んだことを「(1)ハザードマップを知る」「(2)徹底した避難訓練」「(3)津波てんでんこ」の3項目にまとめた。
 被害内容を知るため、住居や学校、職場のある地域で予想される災害の被害想定「ハザードマップ」を見ることを薦める。徹底した避難訓練としては、母校が実施していたさまざまな訓練を紹介した。
 さらに意識したのが、自分たちが最初の避難場所を離れて、さらに高台に逃れて助かったこと。「どれだけ災害に備えたつもりでも、取り組みは不十分」と強調することだ。あの時、崖崩れの兆候がなければ最初の避難場所から動かず、助からなかったかもしれないからだ。それを理解できるようになった時、「奇跡」という表現も受け入れられるようになった。「語り部をやるときの気持ちは、テレビ番組の『しくじり先生』に出ているような気分で、と思っている。『完璧じゃない』。そう思ってもらった方が、人は共感して受け入れやすいかもしれないから」

 

高知市の市立城西中で、生徒らに向けて語り部をする紺野堅太さん=2022年11月

 ▽未来の命のため、伝える本当の“奇跡”
 昨年11月、南海トラフ巨大地震の被害が懸念される高知市の市立城西中で、生徒ら約350人に向ける言葉に力を込めてこう語りかけた。「私たちは、ただただ運良く逃げられただけなんです。今のみなさんの街や学校の防災が『もっとリスクを減らせないか』『間違っていないか』と考えながら、今後、さまざまな活動をやってほしいと思います」
 その後、高知県黒潮町の中学生や地域住民の前でも講演をした。するとある中学生から質問をされた。「家は津波の想定浸水域にあり、すぐ裏に山があるけど、その山に土砂崩れがあったらどこに逃げればいい?」
 紺野さんはこの町の詳しい地形を把握していなかった。「ごめんなさい。この場では答えられないです」と謝るしかなかった。「僕の言葉一つで人が助かるか、助からないか決まると考えると怖い。まだ、勉強が足りないなと思った」
 ある住民からは「私の家、浸水域から遠いから2階に逃げれば余裕ですね」と同意を求められた。それには、真っ先に「やめてください。ちゃんと、逃げてください」と伝えた。東日本大震災では想定浸水域を越えて津波が襲った。釜石東中も当時は浸水域外とされていたからだ。紺野さんの話を聞いてくれた住民からはこう感謝された。「話を聞けて良かった。また、来てくださいね」
 紺野さんの目標は、災害で誰も犠牲にならない社会だ。「日本は世界有数の地震大国で、被害に遭うのが当たり前になっている。それでも、誰も亡くならないことを常識にしたい」。それがどれだけ難しいことかは、もちろん理解している。自身が勉強不足で、経験が足りないことも痛感した。それでも目指したい。
 「釜石の奇跡」の裏では、失われた命がたくさんあった。自分たちが助かったとしても、誰かが犠牲になれば深い悲しみが生まれる。そのことを、「奇跡」の当事者として称賛され、苦しむことで学ぶことができた。もう悲しむのは自分たちだけでいい。それが今、「語り部をする原動力」となっている。

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