生涯成績が打率3割、300本塁打、1000打点でも何か足りない?和田一浩さん   プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(16)

2010年7月の広島戦で本塁打を放つ和田一浩さん。この年はシーズン最優秀選手に輝いた=マツダ

 プロ野球のレジェンドに、現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第16回は打率3割、300本塁打、1000打点を達成した和田一浩さん。長いプロ野球の歴史で7人だけ(4千打数以上)という卓越した成績にもかかわらず、和田さん自身は「足りなかった」と感じていることがあるそうだ。一体何が足りなかったのだろか?(共同通信=栗林英一郎)

 ▽社会人野球時代にバットを振れる力が付いた

 僕が東北福祉大に入れたのは伊藤義博監督(当時、故人)のおかげ。受験に失敗して行くところがない時に「うちに来い」と拾ってもらえた。大学野球をやる道を切り開いてくれた方。それまで接点はない。全国の選手をよく見ておられ、スカウト活動もすごくて情報網に名前があったのではないか。僕は大学野球のことをあまり知らず、福祉大がすごいチームだというのも知らなかった。
 正捕手だった二つ上の先輩が肩を壊し、僕がチャンスをもらって2年生から試合に出られた。伊藤監督からは、とにかく打たれたら全部キャッチャーのせいだと、それくらい厳しいポジションだと教えてもらった。全国大会にも出場できたが、大学時代に実績を残せたとは思わない。全国大会でがんがん打ったかといったら、言うほど打てなかったから。
 大学では木製バットに戸惑った。打球の飛び方だったりバットの振り方だったり、そういった壁に当たった。大学4年間で確かに高校よりは成長したのだろうけど、理論的なことをしっかりやってきていなかったので、我流の部分が抜けなかった。自分の殻を破るまでには至らなかったなと、すごく感じる。

1996年の都市対抗野球大会に出場した神戸製鋼時代の和田一浩さん=東京ドーム

 上級生になってプロを意識したが、どこをアピールしたいかというのはなかった。自分の現在地が全国でどんなレベルなのか、他の選手がどんなレベルなのかも分かっていなかった。ドラフト候補として新聞に名前は載る程度で、評価はそこまで高くはなかった。社会人野球の神戸製鋼に進んだのは伊藤監督の意向というのもあったと思う。
 神戸製鋼での2年間は、とにかくウエートトレーニングをむちゃくちゃやった。バットを振れる力がすごく付いたのが社会人時代。(当時は)金属バットだったというのが大きい。大学で木のバットに苦労した分、金属になって僕の場合は解放されたみたいな部分もあった。プロで再び木製になったが、あまり苦労はしなかった。しっかり振れるようになった感覚でプロに入れたので。そこは社会人で鍛えられたからだろう。

 ▽あと10年長く現役を続けてもゴールにはたどり着けなかった

 プロで1年目から活躍したい気持ちはありましたけど、力がなかった。1997年に西武に入った時の、ぴりぴり感、緊張感はすごかった。(松井稼頭央、鈴木健、伊東勤ら)メンバーにも圧倒されました。結果を残すしかない状況だったが、技術力が足りなかったですね。実際にレギュラーを取るまで5年くらいかかっている。
 2000年の秋に初めて金森栄治さんに会った。教わったことはいっぱいあり、どれか一つっていうのは難しい。技術的な詳しい内容より、一つのことをやり続けたというのは覚えている。全部、常に体に近いポイントで打つということ。いろんなポイントで打てるようになるために、一番苦しいところで打っておいて、そこから楽にしていくみたいな。一番難しいことを、とにかくやり続けた。01年にホームランを16本打てて、ちょっと自信が出た。02年に伊原春樹監督に代わって外野専任を言われ、結果的に外野手一本でいったのがターニングポイントにはなったが、その前段階というか「助走」はある。いきなりポンと良くなったわけじゃない。

2000年7月のダイエー戦で打球に飛び付く捕手時代の和田一浩さん=札幌

 02年に初めて規定打席に達し、自分の打撃が形になってきた。スタイルはできましたけど、それがゴールではなかった。そこからちょっとずつ、いろんなことに挑戦して、ああだな、こうだなと考えて考えてを積み重ねた。もちろん道に迷ったりマイナスになったりしたことはありましたけど、成長するために階段を上っていた。
 今は理論があふれているじゃないですか。体の動きが解析されているので理論の進化はもちろん良く分かる。でも、理論は分かっていても体をどう動かすのかは自分の「体内時計」というようなものでしか分からない。それをいかに染み込ませるかが勝負なので。頭でっかちになっても駄目だし、がむしゃらにやるだけでも駄目。その辺の難しさはある。
 僕は独特の打撃フォームで、ああいうアプローチの仕方が自分に合っていたとは思うが、フォームはちょっとずつ年々変わっていった。その中で変えないところも必要だし、変えてよいところもある。結局、これで終わったというのは絶対ない。現役をあと10年長くやっていたとしても、ゴールにはたどり着けない。
 だからプロなわけじゃないですか。100%はできていないけど、ある程度、確率よくできる選手がプロになっているんで。それができなければプロにはなれないし、飯を食っていくこともできないじゃないですか。そこの差ですよね。これでご飯を食べていくのだから、やはり全てをささげてやらないと、自分のものにはならないですね。

 ▽打者は打っても3割、4割。半分以上は失敗している

 長打力がある打者にしては三振が少ないと言われるが、少ないから良いというわけではない。逆に三振だった方がいい時もある。バットに当ててしまうことがマイナスな場合も。要するに僕は併殺打がすごく多い(歴代15位タイの223本)。そういう意味で三振の少なさはバロメーターの一つにはならないと自分では思っている。三振もゴロもフライもアウトはアウトだ。
 成績が良かった年もあるし、逆に全然駄目だった年もあるので、その辺りを相殺すると、自分が勝負強かったという感覚は全然ない。打点が挙がる、挙がらないというのは巡り合わせなので。1、2番に良いバッターがいれば打点の機会も増える。得点圏が何回あったとか、走者が何回出ていたのかと考えると、単純に打点の数だけではない。ただ、得点圏で打つというのが、すごく難しかったのは覚えている。打点に関して勝負強いと言われても、打者は打っても3割、4割。半分以上は失敗している感覚だから、自分を勝負強かったとは評価できない。

2015年6月のロッテ戦で通算2千安打を達成し、試合後にファンの声援に応える和田一浩さん。同年限りで現役を引退した=QVCマリンフィールド(当時)

 よく打球方向なんていいますけど、僕はあまり気にしなかった。逆方向へは、たまたまそっちに飛んでいったというところ。飛んでいく前に、ある程度勝負はついている。インパクトでいかに自分の体の力を全部伝えるかなので。球が150キロで迫っている間に飛ぶ方向を気にするほど余裕はない。
 ホームランへのこだわりも、そんなになかった。僕は打球が上がるタイプではない。打者には持って生まれた打球の角度がある。フライが上がる選手もいれば、ライナー系のバッティングのスタイルとか。そういう意味で僕はライナーを打っていく選手だったので、理想の打球がフライじゃなかった。おかわり君(西武の中村剛也)なんかはフライが上がるのが理想。それぞれが持っているものってありますよね。

2022年12月、中日の球団事務所で記者会見する和田一浩さん。23年シーズンから打撃コーチを務める=名古屋市

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 和田 一浩氏(わだ・かずひろ)県岐阜商高―東北福祉大―神戸製鋼からドラフト4位で1997年に西武入団。2005年に首位打者。08年に中日へ移籍し、10年にリーグ最優秀選手に輝く。15年6月に史上最年長の42歳11カ月で通算2千安打を達成して名球会入り。史上3人目のセ、パ両リーグでの千安打も記録し、同年限りで引退。通算打率3割3厘、319本塁打、1081打点。72年6月19日生まれの50歳。岐阜県出身。

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