1570年金ケ崎の戦いに「徳川家康も同行した」は本当か 福井県嶺南地域に数多く残る伝承、具体的内容も

金ケ崎緑地から望む金ケ崎城跡=福井県敦賀市金ケ崎町
徳川家康が来ていたことを物語る国吉籠城記。隣には木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や信長の名前もある

 大河ドラマの主人公徳川家康は福井県嶺南地域を訪れたとされる。なぜ今日まで伝承が残ったのか。

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 徳川家康をはじめ、織田信長、豊臣秀吉がそろって戦った最初の戦は「金ケ崎の戦い」といわれる。朝倉義景・浅井長政連合軍の挟撃を知らせようと、お市の方が兄の信長に小豆袋を送ったという伝説は有名だ。華々しくみえる歴史だが、信長が少数の供回りで撤退するほど余裕がなかった「負け戦」。戦国三英傑が来たと伝える信頼度の高い一次資料は今日まで確認されていない。

 信長軍は、越前朝倉氏攻めのため、1570(永禄13)年4月22日に若狭国の熊川に入った。国吉城(福井県美浜町)で軍議を重ねること2泊3日。25日に敦賀に攻め入ると、天筒山城や金ケ崎城(いずれも福井県敦賀市)を次々と落とした。しかし、お市の方を妻とし同盟を結んでいた長政が裏切り近江(滋賀県)から進軍。急報を受け信長は京へ逃げ帰り、秀吉や家康が追撃を防いだ。

 金ケ崎の退き口ともいわれるこの戦に「家康も同行した」と伝えるのは、後世の江戸時代に書かれた二次資料や軍記物。信長一代記「信長公記」や家康の業績をまとめた「東遷基業」、「国吉籠城記」諸本などがそうで、良質な史料とはいえない。当時の家康は居城を三河国(愛知県)岡崎から遠江国(静岡県)浜松に移す準備に忙しく「本当に来た?」との説もある。

 一方で、来ていなかったと証明する史料もない。美浜町佐柿にある若狭国吉城歴史資料館の大野康弘館長(52)は、「金ケ崎の戦いの2カ月後の姉川の戦いには参戦していた。可能性は十分ある」と話す。家康が訪れたことを物語るように、美浜、若狭町には家康伝承が数多く残るという。

 若狭町の熊川宿内の得法寺には家康が腰掛けた松の一部、国吉城本丸跡には秀吉と碁を打ったという大石が残る。美浜町では佐田の浜辺で朝倉の追軍と戦ったこと、同町松原と久々子の境周辺で泊まったと伝わる。古老の言い伝えなどが根拠で伝承の域は出ないが、随分具体的な内容だ。

 これほど伝承が残る理由は何だろう。一つは「若狭国を治めた酒井家が関係している」と大野館長は推察する。江戸時代初期に若狭国を与えられた酒井忠勝(1587~1662)は、徳川家の忠臣として4代にわたり将軍に仕えた人物。「つながりの深い酒井家がこの地を治める上で、家康が来たことはアピールポイントになった。より治世しやすくするため、伝承を広めたのかも」と話す。

 「次第に住民も家康が来ていたことを誇りに感じただろう。伝承を脈々と受け継ぎ、いつの間にか“歴史”として定着したのかもしれない」

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