「ヒロシマが生き方を変えた」大江健三郎さんが遺した言葉 広島と深いつながり

今月3日に亡くなった作家でノーベル文学賞受賞者の 大江健三郎 さん。反戦や反核を訴え続けた大江さんの根幹にはヒロシマがありました。

原爆資料館(広島市中区)には、大江健三郎さんの芳名録が残されています。「私はたびたびこの記念館にまいりました」と記されているように、大江さんと広島には深いつながりがありました。

大江健三郎さん(1987年7月)
「私の人間観、世界観というものは、あの時、作り出されたと思っています」

大江さんは、1960年代の前半に広島を取材し、被爆者や原爆症の治療にあたる医師らを描いた「ヒロシマ・ノート」を執筆しました。このときの経験が生き方を変えたと話していました。

大江健三郎さん
「自分が思い知った原爆の悲惨、苦しみと絡み合っている、人間らしい威厳、再生への希望を一緒に絡み合わせて表現したい」

「ヒロシマ・ノート」は英語にも翻訳され、世界がヒロシマを知るきっかけにもなりました。

1982年3月、2回目の国連軍縮特別総会に向けて、広島でも反核運動の熱が高まっていました。そこに大江さんの姿もありました。

大江健三郎さん
「もし、我々に未来があるとすれば、核兵器を廃絶して、全面軍縮に向かっていく道があり得るとすれば、我々の、市民の運動しかない」

核兵器廃絶に向けて必要なものは市民の力だとし、反戦・反核を訴え続けてきました。

被爆から42年後、広島市で開かれたシンポジウムで大江さんは、核抑止論の危うさも指摘していました。

大江健三郎さん
「核兵器は使われた、現に使われたと私たちは言わないといけない。使われることはないだろうという全人類的な安心に対して、『いや、使われた。使われた以上、もう一度使われない保証は全くない』と、ヒロシマ・ナガサキの経験にたって言わなければならない」

そして、こう呼びかけていました。

大江健三郎さん
「あすの子どもたちの世界が、明るい世界があると信じるためには、私たちは民衆の生き延びるための運動というものに希望をかけるほかはない」

ロシアによるウクライナ侵攻で核兵器の使用が現実味を帯びるなか、大江さんの言葉が警鐘を鳴らします。

© 株式会社中国放送